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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2021年1月の記事一覧

君の寒さは君のもの

君の寒さは君のもの

「着て!」
「着ない!」
 このやりとりを何回繰り返しただろう。外出しようというとき、四歳の息子と揉めた。最近息子は自分を主張して譲らない。あまりの頑固さに辟易するけれど、考えてみるとわたしも相当の頑固者で親を困らせたわけだから、血は争えない。ご飯を食べるか食べないか、お風呂に入るか入らないか、歯を磨くか磨かないか、寝るか寝ないか、ことあるごとに揉めるわけだけれど、このときはコートを着るか着ないか

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砕け散った世界を

砕け散った世界を

 ある朝、人々は轟音と大きな衝撃で目を覚ました。目を覚ましたというのは些か正確さを欠くかもしれない。人々はそれのせいで飛び起きたのだ。家はギシギシと軋んでいるし、あまりの大音響に耳鳴りがしているような有様だった。大地を揺るがすようなそれは、地震だろうかと思われたが、それではあの耳を聾するような轟音の説明がつかない。なにかが爆発したのか。爆発するようなものがあっただろうか。人々は恐る恐る各々の家を出

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誰かがあなたを否定しても、あなたがあなたを否定する必要はない

誰かがあなたを否定しても、あなたがあなたを否定する必要はない

 そこは、山を切り開いて新しく作られた街だった。そこの駅に初めて降り立った時思ったのは、何から何まで新しいということだ。駅はもちろん、駅前のショッピングモールも、そこを走るバスも、バス停の行き先表示も、交番も、立ち並ぶ家々や、集合住宅も、ガードレールまでが真新しい。すれ違うそこの住人たちも心なしか新しく見えた。新しく、正しい街。そんな感じだ。すべてが正しくデザインされ、間違ったと思われたものは徹底

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「おやすみ」と「おはよう」のあいだ

「おやすみ」と「おはよう」のあいだ

「おやすみ」と彼が言い、「おやすみ」とわたしが言う。
「いってらっしゃい」とわたしが言い、「いってきます」と彼が言う。
 わたしが眠りにつく頃、彼は仕事に出かける。彼がどんな仕事をしているのか、わたしは知らない。
「些細だけれど、とても大事な仕事」とだけ、彼は自分の仕事のことを言う。それ以上は絶対に教えてくれない。何度か聞き出そうとしたけれど、適当にはぐらかされてしまう。
「それを知ったら」と、彼

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イカロスの末裔

イカロスの末裔

 私はこの村で初めて空を飛んだ男の息子であります。もちろん、若い頃にはこう呼ばれることに抵抗がありました。まるで私という個人などおらず、まるで私が父の付属物であるかのような扱いだと、ひとり憤慨したりもしました。まあ、月並みな憤りなのは百も承知であります。それでも、そう感じてしまうのはやはり人情でありましょう。
 父の世代の人々や、父の父の、つまり祖父の世代の人々は、私を「初めて空を飛んだ男の息子

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羊があまりにも多すぎる

羊があまりにも多すぎる

 彼女に眠りが訪れなくなってから、もう三か月がたとうとしている。その三か月の間、うつらうつらと船を漕ぐことはあっても、深く眠ることはできず、一睡もできなかった。ベッドに入るとなおさらだ。どうにか眠りを引き寄せようと躍起になって、そうして四苦八苦していると、眠りは遠ざかって行ってしまう。そうしているうちに目は冴え、目をつぶっても眠気は見つからず、それでも瞼の裏にそれを懸命に探し、時計の刻む音が気にな

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真っ白な死の感触

真っ白な死の感触

 まだ幼い頃、叔父の部屋に忍び込むのが好きだった。まだ叔父が結婚する前、さらに前でまだ学生の頃、叔父が祖父母と同居していた頃の話だ。ぼくの家から祖父母の家までは歩いて数分の距離で、ぼくは頻繁に出入りしていた。母には内緒で祖父母がくれるおやつが目当てだ。
 その家の、二階に叔父の部屋はあった。叔父は外出していることが多く、一度だって見咎められたことはない。もし忍び込んでいるのが見付かっても、叔父は優

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獏は悪い夢を食べる

獏は悪い夢を食べる

 少女は目を覚ましたのだが、そこに彼女が見たのは暗闇だった。本物の暗闇である。そこには一縷の光さえなく、少女は自分が目を見開いているのか、それとも閉じたままでいるのかわからなかったほどだ。あるいは、まだ自分が眠ったままでいるのか。彼女は間違いなく目覚め、目覚を見開いていた。彼女を包む闇があまりにも深かっただけだ。
 闇の中、少女は自分がどこにいるのかわからなくなった。それはおかしな話で、彼女は間違

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欲望を燃やせ

欲望を燃やせ

 エレベーターに乗って、もうかなり長い時間が過ぎたように思う。
「まだ着かないんですか?」と、ぼくはおずおずと案内役に尋ねた。
「もうすぐです」とだけ、案内役は答えた。案内役は年齢不詳の男で、若くも見えるし、不意にひどく年老いて見えた。立ち居振る舞いには隙が無く、些細な世間話すら拒むようなかたくなさがあった。ぼくはなんだか委縮してしまっていた。「どれくらいもうすぐですか?」と、尋ねたかったが、でき

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ヒーローになる時、それは今

ヒーローになる時、それは今

 子どもの頃に書いた卒業文集が出て来た。将来の夢の欄には「ヒーロー」と書いてあった。特撮物のヒーローに憧れていたのだとしたら、その年齢にしては少し子どもっぽいような気がする。冗談のつもりだったとしても面白くない。他の子どもたちは「野球選手」や「サッカー選手」、「医者」、「消防士」など、程度の差こそあれ現実的なものを書いていた。ぼくの初恋の女の子にいたっては「薬剤師」となっている。当時のぼくは「薬剤

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世界の秘密

世界の秘密

 わたしの幼い頃を過ごしたのは辺鄙な田舎町だった。そこの住人は誰もが顔見知りで、良く言えば家族のような親密な関係があったが、言うまでもないかもしれないが非常に閉鎖的であり、ある意味では息の詰まる場所でもあった。わたしの父や母の世代まではなんだかんだそこで生まれたものはそこで一生を終えるものと考えられていた。隔世の感がある。わたしは自由に息がしたかったから、結局はそこを出ていくわけだが、それはまた別

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ある海賊の話

ある海賊の話

 その海賊は七つの海を股にかける大冒険をしてきたので、その身体には数多の傷跡が刻まれている。
「これはほかの海賊との戦いでのもの、これは北の海でオオダコと戦ったときのもの、これは南の海で鯨に飲み込まれたときのもの」語りだすときりが無い。「まあ、俺に傷を負わせた奴には必ずその倍はお返しをしたがね。やられたらやりかえすが俺のモットーだからな」
 ある日、海賊は海に落ち鮫に足を食べられた。海賊は悲鳴一つ

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おかえりなさいまし

おかえりなさいまし

 友人に招かれ、その家に行ったのだが、その招いた本人がなんと不在であった。出迎えてくれたのは、その細君である。
「申し訳ありません」と、細君がわたしに謝罪をした。「じきに帰って来ますので、お上がりになってお待ちください」
 その言葉に甘えて友人の家で待つことにした。招いておいて帰らないなどということはあるまい。おそらく、近所に何か用のあったに違いない。さては、待たせに待たせていた例の原稿を速達で出

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すごく透き通った世界

すごく透き通った世界

 まだわたしが子どもだった頃、わたしは透明だった。驚くほど透き通っていて、わたしを通して向こう側が見えるくらいだった。水や氷よりも透明。わたしは自分を通った光が作る影を見ているのが好きだった。地面に落ちたそれは、わたしの動きの加減によってユラユラと揺らめいた。それを日が暮れるまで見ていたほどだ。わたしは自分の透明な手を日にかざし、光が乱反射する様をいつまでも見ていた。そんな子どもだった。
 学校に

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