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欲望を燃やせ

 エレベーターに乗って、もうかなり長い時間が過ぎたように思う。
「まだ着かないんですか?」と、ぼくはおずおずと案内役に尋ねた。
「もうすぐです」とだけ、案内役は答えた。案内役は年齢不詳の男で、若くも見えるし、不意にひどく年老いて見えた。立ち居振る舞いには隙が無く、些細な世間話すら拒むようなかたくなさがあった。ぼくはなんだか委縮してしまっていた。「どれくらいもうすぐですか?」と、尋ねたかったが、できなかった。
 それからまたどれだけの時間が過ぎただろう。エレベーターは相変わらず動きを止めない。
「どこに向かっているんですか?」と、我慢できずにぼくは尋ねた。
「世界の中心です」とだけ、案内役は答えた。
「中心?」
「ええ、中心」と、案内役はうなずく。「中心なので、かなり深いところに向かっています。世界で一番深いところまで下降しなければならないわけですから、当然時間もかかります」と言って案内役は笑った。おそらく、笑ったのだろうと思う。それはとてもぎこちのない笑みで、笑うという動作を何度も練習して身につけたもののようだった。ぼくはそこで笑うべきか否かがよく分からなかったので、黙ってうなずくだけにした。そして思った、エレベーターは降りて行っていたのかと。ぼくはそんなことも知らなかったのだ。それが下降しているのか、上昇しているのか、そんな基本的なことも、ぼくは知らなかったのだ。
 またかなり長い時間が経った。「もうすぐ」は、どれだけ「もうすぐ」なのか。ぼくも案内役も黙っていた。凄まじく長い時間に感じられた。本当はそれほど長い時間ではなかったのかもしれない。時計が無いので正確な時間はわからなかった。
 唐突にエレベーターは停止し、ドアが開いた。「着きました」と案内役が言った。ぼくはうなずいた。とりあえずうなずいた。よくわかっていなかったが、とにかくうなずいた。
 ドアの向こうは薄暗い廊下だ。「こちらへどうぞ」と、案内役はぼくを促す。ぼくはそれに従って廊下を歩き始めた。それを拒絶したところで、どこへ行くというのだ。
「この先には何があるんですか?」と、ぼくは尋ねた。
「世界を回転させるエンジンです」と、案内役は答えた。「朝が来て、夜が来る。そしてまた朝が訪れる。それだけではなく、ありとあらゆるものが回転しています。そうしたもの全てを動かしているのです」
 ぼくは曖昧にうなずいた。話が大き過ぎていまいち飲み込めないのと、疲れているからだろう。エレベーターに乗っていただけなのに、ひどく疲れていた。
「着きました」と、案内役はまた言った。ドアがある。「この先にエンジンがあります」
「はあ」ぼくはまた曖昧にうなずく。案内役がぼくの顔を覗きこむのを見て、ぼくはなんだか居心地が悪くなって「それは何を燃料に動いているんですか?」と、質問してみた。
 案内役は嬉しそうな顔をして「昔は『やさしさ』で動いていましたが、今は『欲望』が主な燃料です」と教えてくれた。「『やさしさ』よりも『欲望』の方が、よく燃えるんです」
「はあ」僕はまた曖昧にうなずいた。
「見たいですか?」案内役は言った。
「そうですね。大変興味深いですから」ぼくは答えた。正直、特に興味はなかったが、そう答えることは彼を失望させそうで怖かった。
「見たい?」
「ええ」
「本当に?」
「はい」
 ドアの奥で、何か大きなものが、ゆっくり、しかし力強く動く音がした。
 欲望が、燃えている。


No.425


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