見出し画像

気になる投稿~記者が見た能登半島地震の被災地、そして今思うこと~

はじめに

共同通信、大阪支社の投稿が目に留まりました。

内容は、3名の記者による現地取材での想い。
記事とは違う観点で書かれていて、興味深く読ませていただきました。

3名の気になった部分をピックアップしてお伝えしようと思います。

能登出身の山﨑祥奈記者(秋田支局)

能登出身の山﨑記者。
「能登=被災地」として染まっている現状。
でもそれだけではないはずです。

能登半島地震の報道等を日々目にする中で、『能登=被災地』が多くの人たちの共通認識になってしまっているのではないか。

大好きな故郷が「被災地」だけのイメージに染まっていくのは、つらいものがあります。私が知っているのは「被災地の能登」だけではありません。美しい景色やおいしいもの、取るに足らない日常です。

共同通信・大阪支社「記者が見た能登半島地震の被災地、そして思うこと」より

失われてしまった以前の暮らしを伝えていくこと。忘れないでいること。それができるのはその地に住んできた人しかできないことです。

共同通信・大阪支社「記者が見た能登半島地震の被災地、そして思うこと」より

行ったことがないひとは、被災したのちの、テレビで流れてくる能登しかイメージできないんじゃないかと思いますが、能登半島は祭りもいいし、風景もいい場所です。
復旧すらままならない現状ですが、いつかハレの日を楽しむことが出来る日を信じたいと思います。
でも、高齢化が進んだ地であり、コロナ禍の数年間で行事が止まってしまった状況もあります。
以前の暮らしを忘れない、忘れさせない手伝いだけでも出来たらいいなと思います。

隣県から応援に入った西尾陸記者(富山支局)

西尾記者は富山から応援で取材に入った立場で、石川県内での『差異=境界線』を感じられたそうです。

翌朝、金沢市内に戻ると、街は拍子抜けするくらい「普通」でした。若者がカフェのテラス席でコーヒーを飲み、高級ブランド店で人々が買い物を楽しんでいます。

何かが心の中でひっかかりました。もちろん普通の生活を送る人々に罪はないし、東日本大震災後のような経済活動の自粛を求めるつもりも全くないです。しかし、能登の人々の顔が脳裏に浮かびました。被災地とそれ以外の地域の間にある残酷な境界線を見た気がしました。

共同通信・大阪支社「記者が見た能登半島地震の被災地、そして思うこと」より

境界が見えなかっただけで、能登半島地震をきっかけに顕在化しました。
そして能登半島地震の現場は、まだ復旧作業すら終わっていない状況です。

元々あった地方と都市の間にある境界線が、地震で一気に顕在化したように思えました。

能登が静かに忘れられていくことだけは避けたいです。私自身は記者として、被災地から持ち帰った多くの消化しきれない問いと向き合い続けようと思います。

共同通信・大阪支社「記者が見た能登半島地震の被災地、そして思うこと」より

人間の記憶なんて、あっという間に忘れてしまうんじゃないかと思います。
でも能登はそこにあり続け、生活するひとは居続けます。
改めてではありますが、伴走しながらの引き続きの支援が必要になると感じました。

初めて能登を訪れた岡田篤弘記者(大津支局)

初めての能登半島が、地震後の取材によるものとなった岡田記者。
新幹線の延伸にも触れ、今後の復興への期待についても記述しています。

正直なところ、経験も浅く土地勘もない私が現場に入って何か伝えられることがあるだろうか、という不安もありました。

しかし、現場では能登の人が困難な状況の中でも前を向いていました。避難所で受験勉強をしていた高校3年生は、共通テスト2週間前の被災にも「時間は取り戻せない。残りの時間、きっちり勉強します」と力強く語ってくれました。私まで勇気づけられるようでした。

共同通信・大阪支社「記者が見た能登半島地震の被災地、そして思うこと」より

おわりに

復興への道のりは、残念ながら長いものとなりそうです。
伴走しながら、寄り添いながらの長い支援が必要とされます。
まず出来ることは #能登を忘れない こと。
そして継続的な支援、その手伝いをすること。

では。

関心を持ってくれてありがとうございます。 いただいたサポートは、取材のために使わせていただきます。 わたしも普段からあちらこちらにサポートさせてもらっています。 サポートはしてもしてもらっても気持ちが嬉しいですよね。 よろしくお願いしますね。