記者が見た能登半島地震の被災地、そして今思うこと
共同通信では、全国から多くの記者が能登半島地震の被災地に入り、取材に当たっています。能登出身の記者もいれば、初めて能登に足を踏み入れた記者もいます。そのうち3人の思いを今回紹介します。
記者の1人、能登出身の山﨑祥奈さんはさまざまな立場の記者の思いを一つの記事としてまとめることについて、こう考えたと言います。
読者の皆様にも現場で取材し、ニュースを伝える若手記者の思いの一端を共有していただけますと幸いです。
■ 能登出身の山﨑祥奈記者(秋田支局)
「どこ出身ですか?」
初めて会う人同士でだいたい話題になるこの一問。仕事柄、毎日のように初対面の方と出会うので、毎回この質問が出てきます。
今年1月1日以降「石川県の能登出身です」と返すと、だいたいの人が驚き「大変だね…」と悲しそうな顔をします。心配してくださるのはありがたいのですが、いつも心のどこかで違和感がありました。
能登半島地震の報道等を日々目にする中で、『能登=被災地』が多くの人たちの共通認識になってしまっているのではないか。
大好きな故郷が「被災地」だけのイメージに染まっていくのは、つらいものがあります。私が知っているのは「被災地の能登」だけではありません。美しい景色やおいしいもの、取るに足らない日常です。
1月に秋田から能登に取材に入った後、1週間ほどたったとき、能登で取材を共にした大津支局の岡田篤弘記者からそんな声をかけてもらいました。
この写真は「震度7を観測した石川県志賀町で倒壊した祖母宅」と「以前の祖母宅で食卓を囲む人々」です。私はこの2枚を比較して見てもらいたいと思いました。
倒壊した祖母宅の写真は、地震が発生した1月1日、共同通信のニュース写真として配信されました。その後、以前の祖母宅の外観の写真を探したのですが、私は撮っていませんでした。家族や親戚に聞いてみたのですが、なんと誰もが「1枚も持っていない…」というのです。
当たり前すぎて写真にも残らないような風景。それが今回の震災でどれだけ失われてしまったのか…そう思わずにはいられません。しかし、写真を探す中で、これまでの能登の暮らしが分かるいくつもの写真が見つかりました。
よろしければ、こちらで能登の風景を見ていってください。
失われてしまった以前の暮らしを伝えていくこと。忘れないでいること。それができるのはその地に住んできた人しかできないことです。
能登に住んできたからこそ伝えられることがあるのではないか。そう改めて感じさせられました。
山﨑記者の被災地ルポです。あわせて読んでいただけますとうれしいです。
■ 隣県から応援に入った西尾陸記者(富山支局)
勤務地の富山市から岐阜県の親族宅に向かっていた元日、緊急地震速報を聞き、支局にUターンしました。深夜まで富山県内の被害確認に追われ、そのまま徹夜で能登半島に向かいました。
翌日からの60時間は怒濤のように過ぎました。
2日は能登空港などで避難者を取材し、3日に珠洲市に入りました。一時外部に通じる道が完全に寸断された同市で、報道各社の取材陣が本格的な取材を始められたのがこの日の午前。私もその中の1人でした。
ほとんどの建物がぺしゃんこに倒壊した珠洲市の宝立町鵜飼地区を歩くと、余震が続き、そのたびに周囲のがれきが崩れてこないかと体がこわばりました。海岸線か100メートルほど離れたところに魚が打ち上げられており、かなり深くまで津波が襲ってきたことが分かります。あたりを見ると、車が住宅にたたきつけられ、泥まみれになった家電や衣服、写真アルバムといった品々が道路に散乱していました。
私が歩いた範囲だけで、がれきの下敷きになっている人が10人近くいました。消防隊が一軒一軒をまわり、「聞こえますか!」と名前を呼びながら捜索しています。全壊した住宅の脇には、毛布をかけられた遺体が横たえられていました。降り続く雨が当たらないように、傘が広げて置かれています。周りに集まる人から離れて、男性が大声で泣いていました。その日は午後3時ごろ取材を終えましたが、再び道路が一時通行不能になった影響で宿泊地の金沢に帰り着くことはできませんでした。
ネット上などで、地震発生直後から被災地入りした報道関係者の車が渋滞を悪化させているとの批判もありました。しかし、誤情報も飛び交う中で、被災地の現状を正確に伝えることが私たちに課せられた使命です。「中の人間」が勝手に判断することではないかもしれませんが、やはり私自身は、行くべきだと強く思います。それを理解してもらうためにも、人々のためになる記事を書きたい、と取材しながら思っていました。
翌朝、金沢市内に戻ると、街は拍子抜けするくらい「普通」でした。若者がカフェのテラス席でコーヒーを飲み、高級ブランド店で人々が買い物を楽しんでいます。
何かが心の中でひっかかりました。もちろん普通の生活を送る人々に罪はないし、東日本大震災後のような経済活動の自粛を求めるつもりも全くないです。しかし、能登の人々の顔が脳裏に浮かびました。被災地とそれ以外の地域の間にある残酷な境界線を見た気がしました。
取材をした被災者のほとんどは地元への強い愛着を語っています。輪島市の小さな集落で話を聞いた80代の女性は「能登はこのまま見捨てられるのではないか」と不安を口にしていました。住民のよりどころであり続けることを誓う住職とも出会いました。
元々あった地方と都市の間にある境界線が、地震で一気に顕在化したように思えました。
能登が静かに忘れられていくことだけは避けたいです。私自身は記者として、被災地から持ち帰った多くの消化しきれない問いと向き合い続けようと思います。
■ 初めて能登を訪れた岡田篤弘記者(大津支局)
元日は愛知県の実家に帰省していましたが、緊急地震速報が鳴り響き、愛知県でも激しく長い揺れを感じました。一緒にいた親戚が「(愛知県のある)太平洋側が震源じゃないか」というほどの揺れでした。
その後、滋賀に戻り、7日から応援取材で能登半島に入ることになりました。石川県は、高校生のころオープンキャンパスで訪れたことがあるだけ。早朝金沢を出発し、大規模捜索が始まった輪島朝市を訪れました。みぞれを含んだ雨が日本海の北風に乗って強く降り、手に着けた手袋はすぐにぬれて冷たくなります。まだまだ焦げ臭いにおいが漂っていました。大津支局員の性なのか、無造作に置かれた信楽焼のタヌキと目が合いました。火事の炎の中を溶けずに済んだのでしょうか、冷たい雨に打たれながら、何とも言えぬ表情を浮かべていました。
家に押しつぶされた車や、崩れた道路、バラバラになった墓石…。人々の生活が一瞬にして壊されたような感覚を受けました。
正直なところ、経験も浅く土地勘もない私が現場に入って何か伝えられることがあるだろうか、という不安もありました。
しかし、現場では能登の人が困難な状況の中でも前を向いていました。避難所で受験勉強をしていた高校3年生は、共通テスト2週間前の被災にも「時間は取り戻せない。残りの時間、きっちり勉強します」と力強く語ってくれました。私まで勇気づけられるようでした。
私は深刻な被害を報じましたが、その後再興を目指す酒蔵もあります。
私の勤務地、滋賀県は、関西方面などからの北陸への玄関口になっています。名古屋から北陸へ向かう特急しらさぎは米原駅を経由、大阪・京都から北陸へ向かう特急サンダーバードはJR湖西線を経由します。
3月16日には、北陸新幹線が滋賀県と隣接する福井県敦賀市の敦賀駅まで延伸しました。延伸が被災地にどのような影響をもたらすのか。観光ありきで復興に遅れが出てはいないか、注視していきたいです。