見出し画像

万内川砂防堰堤群を訪れました~新潟県妙高市・土木学会選奨土木遺産~

土木学会選奨土木遺産としては、万内川砂防堰堤群・日影沢床固工群として登録されていますが、今回は時間の都合で万内川砂防堰堤群を見るに留まりました。

明治35年(1902年)5月19日、粟立山が大音響と共に大崩壊を起こし、万内川と支流の日影沢を埋めつくしました。折からの融雪と相まって、やがて崩壊した土砂は土石流となり、下流域の西野谷集落を襲いました。集落53戸のうち30戸が流出し、ほとんどの田畑が失われましたが、山の異変に気づいた村人が素早い避難を行ったため、人的被害は死者1名でした。
 この大規模な土砂災害を契機に、大正10年から県下初の砂防事業が着手されたことから、「新潟県砂防発祥の地」とされています。
 その後、昭和の時代に入ると、魚野川流域でも砂防事業が始まり、徐々に県内各地へと砂防事業が展開されてきました。

新潟県ホームページより

新潟の歴史は、雪との闘いの歴史です。
この万内川で起きた災害も、死者を1名に留めたことは、集落の結束の強さの証かもしれません。

石碑に書かれていた言葉が、ココロに刺さりました。

村が潰された・・・
 子どもと遊んでやることもなく
  来る日も来る日もただ働いた
炭窯の青い煙が生活の証
 肩のコブは河原で
       石を担いだ勲章さ
   あれから一世紀いま・・・
 辛かった昨日うそのようだ
今度は子供や孫に
 いい思いでを残してやらなくちゃ なー
(西野谷・丸山峰吉さんの詩より)

現地石碑より

県の事業で行われたわけですが、大正の時代。
人力での施工で、集落の方々が人夫として作業にあたったそうです。
石工が割った石やセメント袋を「石背負い」「もっこかつぎ」などの作業にあたったそうです。
女性でも50Kgのセメント袋を2袋背負ったと言います。

現地の材料を用いて、しっかりと施工された砂防堰堤群。
100年を超えた今でも、砂防施設としての機能を発揮しています。
凄いことですよね。


次の機会には、日影沢床固工群も見たいと思います。

では。

この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

関心を持ってくれてありがとうございます。 いただいたサポートは、取材のために使わせていただきます。 わたしも普段からあちらこちらにサポートさせてもらっています。 サポートはしてもしてもらっても気持ちが嬉しいですよね。 よろしくお願いしますね。