恋とピアノと私 #10
(#9から続く)
演奏で温まった体は、しかし、にわかに芯まで凍りついた。
たとえ首元に冷水を浴びせられてもこれほどは冷えないだろう。氷の結晶が内側からたちまち体躯を埋めていくように感じ、気づけばもう、自由に動かせるのは両の目玉だけになっていた。一瞬息をするのも忘れて、ピアノの前で硬直する。空中に浮かんでいた手の置き場に困り、ようやく膝の上に戻すまで、数秒を要する。
かろうじて動く視線だけで、すっと伸びた彼女の背すじと、最前列の席に腕を組んで座る先生とを交互に見る。
「で、これ、どういう曲?」
一言で場の全ての人間を氷と化す魔法を、どうやら彼は会得しているようだった。その自然な薄ら笑いを見るに、みなを凍り付かせていることを自覚している。愉悦さえ覚えているのではなかろうか。そんな意地の悪い想像をしてしまう。
ふだんの音楽の授業で、作曲家のふざけたエピソードを披露しては笑いを取る、お茶目でチャーミングな彼はどこにもいなかった。
椅子の背もたれに深く寄りかかって足を組み、手を頬にやる姿と、男性にしては少し長めの黒髪が、妥協を許さない音楽家の像を結んで、この音楽室にくっきりと投影されていた。
どういう――と彼女が口ごもる。
彼女の口元は見えなかった。
が、つい、自分も唇をきゅっと噛んでしまう。彼女につられて。
「活発な、とか、陰鬱な、とか。そういうのあるでしょ?――すぐに言葉が出てくるようじゃなきゃダメだよ。いつも言ってるでしょう。はっきりしたイメージがないとって。今のあなたの演奏では印象に残らない。ぼんやりして、ぐずぐず崩れてく。意味ないよそれじゃ」
「はい」
彼女の達者な返事が響く。
慣れているのかもしれない。そんなふうに思った。
*
中間発表会のようなものと聞いていた。
コンテストの出場者がそれぞれ曲を演奏し、顧問から講評を受ける。
講評の内容そのものも重要だが、それ以上に、人前で演奏を披露する経験は貴重だ。独特の緊張感はほかの機会では絶対に得られない。それは身をもって知っていた。
伴奏者の自分は、暗譜でもないし、正直言うと気楽なものだったが、彼女のほうはさすがに緊張しているようだった。発表会とはいえ内輪のもの。そんなに顔をこわばらせなくても……と高をくくっていた自分を殴りたくなる。これほど恐怖を味わう場所とは思わなかった。
演奏自体は悪くなかった。これまでの練習の成果は、十分とは言わずとも、八割方発揮されていたはずだ。
彼女のサックスは腹まで響くようによく鳴っていたし、心配していた難しいフレーズもきちんとこなしていた。人前で演奏する緊張感を考慮すれば、上出来だったように思う。
パーフェクトとまでは言われないとしても、よく練習してるねの一言くらい聞けるだろうと期待していた。
楽観的すぎたと、言わざるを得ない。
*
先生は曲に関するいくつかの情報と解釈をすらすらと述べてから、「自分でも考えておくように」と厳かに言うと、手元の楽譜に目を落とした。
「25小節目からやってくれる。伴奏なしで」顔を上げずに、そう指示する。
「はい」
主旋律。この曲のテーマが、何度か繰り返される場面だった。
すっと彼女の息が聞こえ、続いてメロディーが流れ始める。
明るく楽しげな旋律のはずだが、彼女の沈んだ気持ちのせいか、それとも自分の耳のせいか、灰色の霧に覆われたかのように薄暗い音に聞こえる。
テンポが不自然に揺れた。こぼれ落ちる水を受け止めきれずに、右往左往するような演奏だった。
いくつかのフレーズを終えると、先生が「いいよ」と手を振る。彼女が楽器を下ろす。自分は、その姿を後ろから見ることしかできない。
先生は小首を傾げて、
「単調だよね」と言った。
「よい」の意も「悪い」の意も含まない、ただ純粋に「単調」だと思ったからそう言った。そう聞こえた。
ばっさりこき下ろされても、もう気分は落ち込まなかった。これ以上落ち込めないところまで落ち込んでいた。むしろ、みじめさに笑いたくなる。すがすがしい気持ちにさえなる。
この箇所が単調な演奏だと思ったことはなかった。素直にいい曲だなと思っていた。しかし先生が「単調」と口にし、その根拠を並べ立てると、とたんに「単調」としか思えなくなる。それもまた、魔法なのか……
なんなんだろう。
僕らは、単調な曲を懸命に作り出そうとしていたのだろうか、と愕然とした気持ちになる。
僕らは本当に懸命だっただろうか。必死で過去を漁る。
――ただ深い、がらんとした暗がりが見えただけだった。
(続く)