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恋とピアノと私 #10

#9から続く)


演奏で温まった体は、しかし、にわかに芯まで凍りついた。

たとえ首元に冷水を浴びせられてもこれほどは冷えないだろう。氷の結晶が内側からたちまち体躯を埋めていくように感じ、気づけばもう、自由に動かせるのは両の目玉だけになっていた。一瞬息をするのも忘れて、ピアノの前で硬直する。空中に浮かんでいた手の置き場に困り、ようやく膝の上に戻すまで、数秒を要する。

かろうじて動く視線だけで、すっと伸びた彼女の背すじと、最前列の席に腕を組んで座る先生とを交互に見る。


「で、これ、どういう曲?」

一言で場の全ての人間を氷と化す魔法を、どうやら彼は会得しているようだった。その自然な薄ら笑いを見るに、みなを凍り付かせていることを自覚している。愉悦さえ覚えているのではなかろうか。そんな意地の悪い想像をしてしまう。

ふだんの音楽の授業で、作曲家のふざけたエピソードを披露しては笑いを取る、お茶目でチャーミングな彼はどこにもいなかった。

椅子の背もたれに深く寄りかかって足を組み、手を頬にやる姿と、男性にしては少し長めの黒髪が、妥協を許さない音楽家の像を結んで、この音楽室にくっきりと投影されていた。

どういう――と彼女が口ごもる。

彼女の口元は見えなかった。

が、つい、自分も唇をきゅっと噛んでしまう。彼女につられて。

「活発な、とか、陰鬱な、とか。そういうのあるでしょ?――すぐに言葉が出てくるようじゃなきゃダメだよ。いつも言ってるでしょう。はっきりしたイメージがないとって。今のあなたの演奏では印象に残らない。ぼんやりして、ぐずぐず崩れてく。意味ないよそれじゃ」

「はい」

彼女の達者な返事が響く。

慣れているのかもしれない。そんなふうに思った。



中間発表会のようなものと聞いていた。

コンテストの出場者がそれぞれ曲を演奏し、顧問から講評を受ける。

講評の内容そのものも重要だが、それ以上に、人前で演奏を披露する経験は貴重だ。独特の緊張感はほかの機会では絶対に得られない。それは身をもって知っていた。

伴奏者の自分は、暗譜でもないし、正直言うと気楽なものだったが、彼女のほうはさすがに緊張しているようだった。発表会とはいえ内輪のもの。そんなに顔をこわばらせなくても……と高をくくっていた自分を殴りたくなる。これほど恐怖を味わう場所とは思わなかった。

演奏自体は悪くなかった。これまでの練習の成果は、十分とは言わずとも、八割方発揮されていたはずだ。

彼女のサックスは腹まで響くようによく鳴っていたし、心配していた難しいフレーズもきちんとこなしていた。人前で演奏する緊張感を考慮すれば、上出来だったように思う。

パーフェクトとまでは言われないとしても、よく練習してるねの一言くらい聞けるだろうと期待していた。

楽観的すぎたと、言わざるを得ない。



先生は曲に関するいくつかの情報と解釈をすらすらと述べてから、「自分でも考えておくように」と厳かに言うと、手元の楽譜に目を落とした。

「25小節目からやってくれる。伴奏なしで」顔を上げずに、そう指示する。

「はい」

主旋律。この曲のテーマが、何度か繰り返される場面だった。

すっと彼女の息が聞こえ、続いてメロディーが流れ始める。

明るく楽しげな旋律のはずだが、彼女の沈んだ気持ちのせいか、それとも自分の耳のせいか、灰色の霧に覆われたかのように薄暗い音に聞こえる。

テンポが不自然に揺れた。こぼれ落ちる水を受け止めきれずに、右往左往するような演奏だった。

いくつかのフレーズを終えると、先生が「いいよ」と手を振る。彼女が楽器を下ろす。自分は、その姿を後ろから見ることしかできない。

先生は小首を傾げて、

「単調だよね」と言った。

「よい」の意も「悪い」の意も含まない、ただ純粋に「単調」だと思ったからそう言った。そう聞こえた。

ばっさりこき下ろされても、もう気分は落ち込まなかった。これ以上落ち込めないところまで落ち込んでいた。むしろ、みじめさに笑いたくなる。すがすがしい気持ちにさえなる。

この箇所が単調な演奏だと思ったことはなかった。素直にいい曲だなと思っていた。しかし先生が「単調」と口にし、その根拠を並べ立てると、とたんに「単調」としか思えなくなる。それもまた、魔法なのか……

なんなんだろう。

僕らは、単調な曲を懸命に作り出そうとしていたのだろうか、と愕然とした気持ちになる。


僕らは本当に懸命だっただろうか。必死で過去を漁る。

――ただ深い、がらんとした暗がりが見えただけだった。


(続く)