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恋とピアノと私 #9
(#8から続く)
彼女がサクソフォンを組み立てる。
黒のハードケースを開き、一つ一つの部品を取り出していく。
マウスピースにリードを装着する。ネックにはめ込むと、小さくキュッと音が鳴った。パーツは組み合わさり、しだいにその全貌を見せてくれる。
テナーサクソフォン。サクソフォンファミリーの中で最も「サックス」らしさを体現する楽器である。そのあでやかな音は、他の楽器に真似できるものではない。
組み上がった金色の楽器を、彼女が優しく構えた。もう一体となっているように見える。彼女とサックス。合わせて一つの楽器だ。
マウスピースをそっとくわえたその口元に、無意識に視線が吸い寄せられた瞬間、その唇が動いた。
「『ベー』ちょうだい」
B(ベー)。「シのフラット」に相当する音である。
慌てて黒鍵を打ち鳴らす。ぽーん、と一筋の波が部屋に漂う。
すぐに、サクソフォンのかすれたような独特の音が重なる。
波乗りしてるみたいだ。
音楽室の空気が揺らぐ。ゆらゆら揺れて、そこここの壁に跳ね返り、ほのかに温かみを帯びる。肌寒い秋のはずなのに、春の風が吹いた気がした。
頬がほてった。唇を見ていたなどとは、とても言えない。
*
「ねぇ。本気出してくれない?」
チューニングを終えた彼女の固い声が響く。
少し、震えているようにも聞こえた。
「あんなの弾けるんじゃん。さっきの、なにあれ。ショパンてやつ? あれだけ弾けるのに――」
その視線にぐさりと射すくめられる。
「いつも手抜いてたの? そういうの嫌いなんだけど」
サクソフォンのキーをカタカタとせわしなく鳴らしながら、彼女は表情をくもらせる。
怒り? 違う。彼女を満たすのは反骨心であり、向上心だ。
「それとも、なに。わたしの演奏じゃ本気に値しないってこと? それならまぁ……しかたないけど」
自嘲気味に小さく笑った彼女に、自分は必死に「そんなことない」と返そうとして――返せなくて口を閉じた。
彼女は優しい言葉で慰めてほしいわけではない。もちろん、先生からあれだけ厳しい指導をされて落ち込むなというほうが無理だ。隣で座っているだけの自分でさえ、背すじの芯が凍った。真正面から受け止めた彼女の心情を思うと胸が痛む。しかし彼女だって、根こそぎ自信を失ったわけではないのだ。戦う準備はできている。もっともっと、努力する準備はできている。
望むのは、ただいい演奏をして、演奏で認められたい。それだけだ。
自分も同じだった。心の奥底からそう思っている。願ってる。
「ちゃんとやろうよ」
彼女が独りごちた。
その呼びかけは、伴奏者の自分に向けられたものでもあり、かつ、ソリストである彼女自身に向けられたものでもあった。
鍵盤に手を添え、考える。
どうしたらいい?
先生は、何と言っていただろうか――
**
「〇〇くん」
急に自分の名前を呼ばれて驚く。
つい今まで、強い口調で彼女の演奏の欠点を冷酷にあげつらっていたとは思えない、穏やかな声音で先生は言った。
「もっと引っ張ってあげてくれないかな。それから思ったこともどんどん言ってくれていいから」
峻烈な指導に、彼女の背中はすっかり縮こまっている。蒼白の表情で楽譜に書き殴っているのは先生の指示だろう。もうすでに黒い楽譜が、ますますドス黒くなっていく。
「頼んだよ」
先生が笑顔で言った。
自分は、この吹奏楽部顧問の意図をつかみ切れぬまま、ただ「はい」と返して、深くうなだれたのだった。
(続く)