見出し画像

「マヨネーズ・ソース・ドレッシング」が映す日本企業のビジネス戦略の実態

イタリア生活のなかで感じた日本文化との大きな相違点のひとつに「サラダをどうやって食べるか?」がある。

日本人はとにかく、ソース好きだしマヨネーズ好きだしドレッシング好き。

まずサラダを食べる時に何もかかっていないのは「ありえない!」し、スーパーに並んでる「〜風ドレッシング」なんて出したらキリがない。人によっては、むしろ主役はドレッシングなんじゃないか?と思うぐらいたっぷりかける人もいるし、「マヨラー」という言葉の存在が、まさにその存在価値を如実に表していると思う。

一方で、イタリアでの生活は、サラダには何もかかっていない。「お好みでオリーブオイルとバルサミコ酢、塩胡椒をどうぞ」というのが通例で、それがまるでテーブルウェアの定石であるかのようにワンセットで置かれている。

当然これらはドレッシング、マヨネーズ等に比べてはるかに味のインパクトは少なく、あくまで主役は野菜です!と言わんばかりである。つまり、野菜の本来の良さ、野菜の本質を引き出し、価値を高める為の触媒でしかないわけだ。


さて、なぜ日本がいわゆる「ソース文化」になったか?というと、戦後の貧しい時代からの復興経験が大きいのだろう。

食べるものもない、あるいは僅かばかりの貴重な食べ物も当然美味しくない中で、「少しでも食べ物を美味しく」「一家団欒の場に彩りを、、!」という心理から、爆発的に普及していったのだと思う。

ところが、その文化は高度成長を経て裕福になり、食べ物ひとつひとつが美味しくなった今でも、相変わらず引き摺っている。つまり、「なんで(そもそも野菜そのものが美味しいのに)ソースっているんだっけ?」っていう発想、問いが生まれない。当たり前のものだと思われている。


これを日本経済、日本企業のビジネスに置き換えてみると、同じことが言えるんじゃないかとぼんやり感じる。

つまり、日本は高度経済成長の中で、「ソースを作ることが日本の発展の正解なのだ!」という考えを信じ、海外で生まれた電化製品や自動車へ、ソースの改良を重ねに重ねながら塗りたくり、世界を驚かせる「素晴らしい」製品を作り出してきた。たしかに主役が美味しくなければ、ソースを極めるのが当然であるし、その(主役が美味しくない)前提では、ある意味正攻法の素晴らしい戦略であった。(ものづくりを得意とし、器用で繊細な日本人ならば、尚更だ。)


一方で、それを信じ過ぎるが故に、「なぜ自動車はいるのか?」「なぜ冷蔵庫はいるのか?」という論点は置き忘れてきた。


そして、ソースの改良が限界に達し、日本経済が停滞している今でさえ、「ソースの改良」に躍起になっている会社(特に大企業)が未だに多数、存在しているわけだ、、。


まずは、「野菜を生で食べる」ことから始めれば、日本人の意識、日本企業の価値観は徐々に変わるのではないか。。。?

と思う今日この頃である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?