見出し画像

岩国藩と錦帯橋の美学

今年、創建から350年の節目の年を迎える岩国錦帯橋。それは、ものづくり大国・ニッポンの象徴とも言える伝統の架け橋。山口県岩国市の錦川に架けられた五連橋で、日本三名橋(注1) のひとつとされています。
 
(注1) 江戸時代に造られた東京日本橋、長崎の眼鏡橋及び岩国錦帯橋のこと(諸説あり)
 
錦帯橋の概要
1673年、岩国藩の第3代領主である吉川広嘉(きっかわひろよし)の時代に岩国城の城下に建築されたもので、組木の技術によって釘を使わず(注2) に造られた世界的にも類を見ない木造アーチ橋といわれています。

五連アーチの錦帯橋
(Photo by ISSA)

(注2) 釘を使っていないのは組木の部分だけで、橋板の多くの部分では釘が使われている
 
薩摩から徳川に嫁いだ篤姫や、幕末の志士・吉田松陰、浮世絵師の葛飾北斎歌川広重など、歴史上著名な人物も多数、錦帯橋を訪れています。

左:葛飾北斎「すほうの国きんたいはし」
右:歌川広重「周防岩国錦帯橋」    

岩国藩の歴史
1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成の要請で毛利輝元が西軍の総大将になりました。
 
ところが、毛利家の一族で家臣でもある吉川広家(きっかわひろいえ)は、戦況を冷静に分析し、毛利軍の中立を条件に、戦後は毛利の領国112万石を保証して貰うことで、東軍・徳川家康との間で密約を交わします。
 
結果、広家は輝元の参戦を引き留めたものの、小早川秀秋の寝返りなどもあって東軍が勝利しました。

毛利、吉川、小早川の相関図
(Created by ISSA)

しかし、戦のあと、その密約は徳川によって反故にされ、毛利の領地は周防・長門二国(長州藩)の30万石に減封されて(注3) しまいます。また、広家自身も、毛利の領地内で岩国3万石に減封となりました。
 
(注3) その後、広家は輝元に弁明書を送り、無断で徳川との密約に至った自身の思いを書き連ねている

輝元宛の弁明書などを収蔵する吉川資料館
(Photo by ISSA)

広家が輝元を引き留めた背景には、二人の祖父に当たる毛利元就(注4) が、生前、「息子達よ、天下を狙うな、領国を死守せよ」と戒めていたことを、父・元春から聞かされていたからだといわれています。
 
(注4) 毛利元就といえば「三矢の訓」が有名で、1557年、元就が三人の息子(隆元、元春、隆景)に「1本の矢なら簡単に折れるが、3本束にすれば折れない」と言って、一致団結の重要性を説いた
 
岩国城の建設
1608年、岩国城は標高約200mの見晴らしの良い山の上に築城され、上の階が下の階より張り出す珍しい構造から、桃山風南蛮造りとも称されました。

岩国城の天守閣から城下を望む
(Photo by ISSA)

また、麓には平時の住まいとなる御土居(おどい)が築かれました。

上:当時の御土居の佇まい   
下:現在の御土居跡地・吉香神社
(Photo by ISSA)

僅か7年で廃城へ
しかし、築城から7年後の1615年、江戸幕府が「一つの国(藩)に城(大名の居城)は一つ」とする一国一城令を発布(注5) します。
 
(注5) 政権転覆の恐れのある外様大名をできるだけ削減し、徳川の基盤を強化することがねらいだった 

佐々木小次郎像と麓から望む天守閣
(Photo by ISSA)

これにより、輝元から岩国城取り壊しの命を受けた広家は、止む無く岩国城を廃城にします。その後は麓の御土居が吉川家の陣屋となり、明治初期の1871年の廃藩置県まで存続しました。 
 
なお、現在の天守は、1962年に天守閣跡より東側に約50mほど位置を変えて復元されたもので、2006年には日本100名城のひとつに選ばれています。
 
錦帯橋の建設
岩国城の眼下を流れる錦川は、岩国藩の外堀として機能する一方、対岸にある城下町をつなぐ橋は、錦川の氾濫によりたびたび流失し、岩国藩としてはここに「流されない橋を架けること」が悲願となっていました。
 
そこで、冒頭で述べた第3代領主・吉川広嘉は、何とかして洪水に耐えられる橋を造ることはできないかと思案します。
 
あるとき、明から帰化した僧侶を通じて、中国の西湖(せいこ)には島づたいに架けられたアーチ橋があることを知り、アーチ間の橋台を石垣で強固にするれば、洪水に耐えうる橋が造れるのではないかと考えました。
 
その後、広嘉の指示を受けた児玉九郎右衛門(こだまくろうえもん)を棟梁として、1673年に基礎の鍬入れが始まり、石積みの橋脚を築き、その上から木造橋が架けられて、同年のうちに錦帯橋が完成(注6) しました。
 
(注6) 前回の記事で紹介した「岩国藩の御納戸(おなんど)」と呼ばれた商都・柳井が錦帯橋の建設を支えたという

錦帯橋建設後
しかし、翌1674年には洪水で橋脚が壊れて木造橋も落ちてしまったのですが、広家は諦めずに家来に石垣の研究をさせて、橋台の敷石を強化することで、何とかその年の内に木造橋の再建に漕ぎつけることが出来ました。

アーチ島を支える強固な石畳と橋台
(Photo by ISSA)

ただ、このとき水神様の怒りを鎮めるために、二人の娘が人柱となって橋台の下に埋められたという悲しい言い伝えがあります。
 
今でも、橋台の下の石を拾うと、その裏側に娘たちが人形に姿を変えた小さな石人形が見つかることがあるそうです。

石人形資料館寄贈品 - JR岩国駅
(Photo by ISSA)

その後、276年もの間、川に流されることはなかったのですが、1950年の台風で崩壊し、ほぼ完全に流失(注7) してしまいました。
 
(注7) 長引く戦争で橋の補修が疎かになっていたことや、錦川上流で森林伐採が進み保水力が落ちたこと等が原因といわれている

雨に煙る錦帯橋と鵜飼舟
(Photo by ISSA)

翌1951年から復旧工事が始まり、1953年には再び木造橋として復元されました。
 
その後、2001年から2004年にかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われましたが、2005年の台風で、またしても橋脚の一部が流失してしまいました。
 
創建以来、3度目の流失でしたが、その後の復旧工事で現在の美しい姿を再現し、今に至っています。
 
錦帯橋の名の由来
当初、岩国藩は単に「大橋」と呼んでいましたが、市民の間では凌雲橋、五竜橋、帯雲橋、算盤橋など、様々な名で呼ばれていたようです。
 
錦織の布で作った帯に由来する「錦帯橋」という名が本格的に広まったのは1700年代後半で、公式に認定されたのは明治維新後の1800年代後半のことです(命名者は不明)。

橋幅およそ5メートルの錦帯橋
(Photo by ISSA)

岩国錦帯橋の特徴
錦帯橋は、6つの橋脚、5つの木造橋(うち、中央の3つがアーチ橋で、両端2つが桁橋)から成り、主要構造部は組木の技術によって釘を使わずに造られています。
 
こうした構造形式は世界的にも珍しく、ユネスコの世界遺産にも類似の構造をもった木造橋は見られないそうです。

出展:錦帯橋 ー 世界遺産をめざして

現在の橋体に使われている木材は赤松、檜、欅などで、木材の特性により使い分けられています。
 
一方、橋脚の石垣や河床の石畳は、創建時の部材がそのまま残っている箇所であり、橋が崩壊した時も元の石材を集めて造り直されています。
 
また、創建時から現代までの修復記録もほぼ完全に残っており、歴代大工の名前も全て分かっているそうです。

川のたもとからアーチ橋を見上げる
(Photo by ISSA)

更に、記録によれば、江戸期にはアーチ橋は約20年ごと、桁橋は約40年ごとに架け替えられ、橋板や高欄は約15年ごとに取り替えられていました。
 
こうしたやり方は、世代交代の都度、建築技術を継承する必要があったからなのでしょう。
 
架け替えのたびに改良が加えられ、1796年の改良で現在の形状が定まって、以後200年以上もの間、形状や意匠の変更はされていないそうです。
 
錦帯橋周辺を訪ね歩く 
さて、錦帯橋周辺に目を向けてみましょう。
この辺は、桜の名所として知られています。

桜と菜の花と錦帯橋
(Photo by ISSA)

時期にもよりますが、夜はライトアップも楽しめます。

岩国錦帯橋と夜桜
(Photo by ISSA)
ウクライナ・カラーにもライトアップ
(Photo by ISSA)

隣接する吉香公園(きっこうこうえん)は、1885年に吉川家の氏神である吉香神社が現在の場所(御土居だった場所)に移設されたのを機に、公園として整えられたものです。

吉香公園
(Photo by ISSA)
樹齢百年以上といわれる古桜
(Photo by ISSA)

特に、春先から初夏にかけては、四季折々の美しい花々が咲き誇り🌸

左上:桜  右上:梅  
左下:菖蒲 右下:紫陽花
(Photo by ISSA)

秋には紅葉が見ごろを迎えます🍁

左上:永興寺 右上:洞泉寺 下:紅葉谷公園
(Photo by ISSA)

時には、甲冑をレンタルして戦国武将に成りきるも良し😅

本家松がねと甲冑体験
(Photo by ISSA)

もちろん、グルメも存分に堪能できます😋

左上:岩国寿司(半月庵)         
右上:瓦そば(竹の里むさし)       
左下:ビーフカツレツ(錦帯橋ダイニング桜
右下:クリームぜんざい(さくらの茶屋)  
(Photo by ISSA)

このように、錦帯橋という誠に優美な橋の名もさることながら、周辺に調和的に散在するお城、神社、公園、町並み、木々、花々などが、地域全体を魅力的なものにしています。
 
おわりに
錦帯橋は、1673年の創建以来、度々、錦川の氾濫による流出の危険に遭遇してきました。しかし、地域の人々は、常にこうした自然の脅威と闘いながらも、350年にわたり創建当時の技法を守り抜いてきたのです。
 
そのことに思いを馳せるたびに、日本人のDNAとも言うべきものづくりに対する意気込みと、それを通じて鍛え上げられた精神性、藩士らが備えていた公徳心というものに感服してしまいます。
 
錦帯橋には、家臣として領主に忠誠を尽くす一方で、常に民の暮らしを気遣ってきた岩国藩士と、アーチ橋の造形美や組木による伝統技法に拘り続けてきた職人たちの「美学」が詰まっているのです。

アーチ橋と岩国国際観光ホテル
(Photo by ISSA)

   幸福のかけらは幾つでもある
   ただ それを見つけ出すことが
   上手な人と 下手な人がある
  ~ 岩国出身の小説家・宇野千代
 
錦帯橋をみて、ただ単に風変わりな珍しい橋と思うのか。或いはその背景に込められた日本人の美しい心意気を見出すのか。
 
ひょっとしたら、後者のような発想にこそ、「幸福のかけら」を見つけるヒントが隠されているのかもしれません🍀
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 
昨年12月、岩国錦帯橋空港は開港から10周年を迎えました🌈

錦帯橋を、世界遺産に登録しましょう✨