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頭のよさとは自分や人を守る力で、頭の悪さとは自分や人を責める力だと。

このところ、いろんな大人や少年少女から「私は頭が悪いので」という意味のことを聞く。

それは謙遜というより、ちょっとした諦めのようだ。

今日は、ある学校で授業をした。教室のうち半分の生徒が熱心に私の話を聞き、あとの半分の生徒は談笑するか、眠っていた。

生徒たちは、ちょうど教室の前のほうと後ろのほうでそれらのグループに分かれていた。ほんらいの席順ではないが、私は生徒にとって快適なポジションならべつにどこに座ってもいいと思う。


いま、私はいろんな年代の、いろんな事情を持った人たちに英語を教えている。

そのなかで「頭のよさって一体なんだろう?」と思うことがある。


もちろん「これだ!」と言い切れるほどの決定的な答えはまだ見つかっていない。

でも、私はかなり強く、こう思う。頭のよさとは自分や人を守る力で、頭の悪さとは自分や人を責める力だと。


私のいう「守る」は、自由を守るとか、権利を守るとか、時間やお金を確保するとかいう意味だ。将来とか、社会的な安全を守ることも含む。

人を責めるのが上手いことは、べつにそれ自体が賢いことではないと思う。短期的には得しても、長期的には損するからだ。


教室の後ろのほうにいる生徒を、どうすれば守ることができるのか。

私には力が足りていない。









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