劣等感を感じる場所と発達障害。
劣等感を感じる辛さ。
劣等感なんて、だれも感じたくないと思う。
私は、劣等感を感じたくないのに、強く、感じてしまう。
新しい病院に就職してからというもの、毎日だ。
業務に対しては、知識も技術も、自信を持って十分にある、といえると思う。
むしろ簡単すぎる。
時間も知識もおもてなしの心も、すべてを持て余している。
できることを押さえて、隠して、
自分の能力は全く発揮されない。
湧き上がる、職場での『劣等感』ないし、『無価値観』で曇る心について。
今いる場所が自分には合っていないのではという気持ちと、
時間を無駄にしてしまっているような恐怖心があり、
心が曇っている。
職場というものに、夢や希望を抱きすぎなのかもしれないし、
理想が高すぎるのかもしれない。
もしくは、ゼロか100かで考えてしまっていて、少しでも「嫌」と思うと、
全てが魅力なく感じてしまう―――白黒思考の所為なのかもしれない。
「仕事なんて、楽しいと思ってやっている人なんて一握りだよ。」
「どこに行ったって同じだよ。」
そう揶揄されてしまうかも。
いずれにしても、今までの転職では感じたことのない、よくわからない心理状態になっている。
とにかく憂鬱感がひどい。
達成感は皆無で、今日一日を振り返っても
「私が居ても居なくても、誰も気づかなかったんじゃないだろうか。」
そんな気持ちになる。
言葉を選ばずに言うと、
今の職場で私は、能力を押し殺して過ごしている。
業務の一つ一つは、恐ろしく難易度も低く、
単純すぎるほど。
ただし、電子化されておらず手作業量のものばかりなので、事務処理作業は多く、感情は抜きにして紙をさばく手際と正確さのみ求められる。
看護師として就職したけれど、
客観的に見ても、私の良さを活かす場面は無い。
職場で自分が何をしているのか。
昨日、今日と、
使われなくなった、紙の資料を
一日中、仕分けして、倉庫にしまっている。
患者さんにも、医者にも、関わっていない。
それが終わると、なにもすることが無い中、
落ち着かない気持ちで、診療を行っている診察室に戻る。
無理やりに何かすることはないだろうかと不安な気持ちで立ち、
他の看護師が診療介助をする傍らで、邪魔にならないよう、立ちながら、
「わたしは何をしたらいいだろう。(本当に何もすることがなくて、心ばかり空回り)」
気を揉み続ける。
「じぶんは、何をやっているのだろう」
頭の中は、そんな思いでいっぱいになる。
「不安」「落ち着かない」「何かしなければと思うのに、何もすることがない」
そんな状態だ。
ゴミも落ちていないし、物品は全て補充されている。
雑務でさえ無い。
仕事が、無い。
診療を見守り、患者さんの訴えを聞き取ろうと集中したくとも、
「そこに立ってないで先生から見えないところにいてください」
といわれる。
頑張りたいし、一生懸命になりたいけれど、
さぼりたいなんて、一ミリも思っていないけれど、
陰で立ち尽くしているしか無くて、ほんとうにやるせなくなる。
患者さんと話す場面というのは
「先に、レントゲンに行ってきてください。」
これくらい。
「患者さんに、病院に来た時よりも、少しでもいい気持ちで帰ってもらいたい」そう、思う気持ちはずっとあるのに。
そもそも患者さんに接する時間が存在しない。
先に一緒に働いている看護師どうしは、仲が良く
自分は、どうも
壁を感じてしまう。
話をふられることも無く、目が合うことも無く。
だれも自分には興味が無いみたいだ。
自分というか、
みんな、
周囲の人にも、
仕事にも、
何に対しても、パッションが全くないように見える。
わたしは、人間が怖いという気持ちもあるが、
毎回たいてい、恐怖心よりも好奇心が勝ち、
初対面の人には自分から話しかけて率先して打ち解けるタイプだ。
今回も、例にもれず、笑顔でいることを心がけ、
雑談はしないものの、休憩の時間には少し自分のことも話したり、
休憩が一緒になった看護師に話しかけたりしてみていた。
無視はされないものの、
目は合わず、
少なくとも、自分と仲良くなりたいとか、
「新しい人」を歓迎する、という空気感は無い。
今まで、職場でここまで「無」になることはあっただろうか。
「あれ…わたしはなんで病院に戻ってきたんだっけ?」
現場が恋しいと思って病院に戻ってきた気がするんだけれど、
患者さんからも遠く、他のスタッフからもなんだか遠い。
孤立しているというのとまたちょっと違って、壁紙の一部になったような、
見えない空気のような存在になったような、
そんな心境だ。
冷静に考えると…
看護師なのに、残業はなく、日勤だけで常勤職員。
6時には帰宅可能。
日本語教師の仕事をすることも許されていて、
家からも近い。
条件はまあまあいいはず。
なのに、精神的に、あまりいいとは言えない。
前の職場の夢も、相変わらず見る。
前の職場や同僚の夢を見るたびに、未練を断ち切れない深層心理を表しているかのようで情けないような切ない気持ちになる。
物事を深く突き詰めて考えてしまう性格上、
「こんな気持ち(劣等感・無力感)を感じる場所には、留まるべきではないんじゃなかろうか。」
「じぶんが合う場所、というのは、劣等感なんか感じる暇もなく、どうすればもっと良くなるか、とか、どうすればうまくいくか、など考えて忙しいのでは?」なんて思いが湧いて来てしまい、
理想と現実の間での葛藤が始まる。
愛着障害の弊害なのか、ASD的な思考のせいなのか、
「じぶんの求める理想の何か」がどこか他にあるような気がして
目の前の物を否定したくなる気持ちが湧いてくる。
養護教諭の仕事をした時も、外資系企業で働いた時も、
今まで病院で働いた時も、
今のような気持ちになることはなかった。
もうちょっと、色々に夢中で、必死だったせいで色々を感じる余裕もなかったのかもしれないが、
それにしても
「無関心」
愛の反対は無関心、というけれども
無関心にされるという事がこんなに虚しいなんて。
時間の問題で慣れるというより、自分の細胞や感情を殺していくようなことをしなければいけない気がする。
見方を変えると、
わたしには
「もっと頑張りたい!もっと思いっきり頑張りたい!!」
そういう気持ちが、心にまだまだ燃えているのかもしれないな、と思う。
表立っていじめられているというわけでもない。
ここに居ることも、可能か不可能かといわれたら、可能ではあると思う。
しかし、望んでここに居続けたいと思うのかといわれたら・・・
正直な答えは口に出すことができない。
真面目すぎて、働くことに意義がないといけないような気がしてしまう。
何かにもっと一生懸命になりたい。
一生懸命頑張りたい。
自分の勉強してきたことを、じぶんの能力を、活かして、仕事がしたい。
「こうしたらもっと良くなるのに。」無駄が嫌いなASDが本領を発揮できない末路。
ASDの自分は、合理的な事が大好きで、「効率重視」とか、「無駄をなくす」とかの言葉が大好物だ。
その逆、
「昔からこうだから」
「ここではこうやる決まりだから」
といった、根拠のない非効率な仕事が大嫌いだ。
ムダにIQも高いので、ありとあらゆる無駄がとめどなく視界に飛び込んできて、
片っ端から変えたくなる。
今の病院に就職してからというもの、
気が狂いそうだ。
非効率と不可解なルーチンワークの山。
そして不要な仕事の数々。
ムダに頭が働きすぎるものだから、思考が止まらずに苦しい。
「もっとここをこうしたら、8時間かかっている作業が3分で終わる。」
こうした提案が「許されない・歓迎されない」のにもかかわらず、
思考の大波、渦となって頭をめぐり続ける。
適応障害という言葉がある。
環境に適応できないことから発症する病だ。
これは、超簡単に言えば、自分の実現したいことや本来の自己が何らかの制限や環境によって実現することができず、結果、メンタルの不調を引き起こすというものだ。
真面目で責任感が強かったり、あるいは改革志向で、新たな方法や発想が得意な人もなりやすい。
つまり、仕事ができる人ほど、それが押し込められるような環境に置かれたときに、心を病む。
精神が弱い、のではなく、
環境とのギャップがそれほど生じる=他の人より発想力などにおいて飛びぬけた力があるからこそ
起こる、「結果的な構図」だ。
なにも感じない、長いものに巻かれて疑問も持たない人は、ギャップも何も生じることはない。ある意味どんどん環境に適応していけるのだから。
皇室に入られた雅子様が適応障害を患われたのは、
あまりにも類まれなる優秀さによるかと拝察する。
古い体質と、時代も国をも超えて先を行くキャリアウーマンとでは、考え方ひとつをとっても、真逆の価値観だったのではなかろうか。
皇室のお話は置いておいて。
頭がいいとか、できすぎてしまう、とか、
とにかくなまじ、優秀であったりすると、辛い。
この世は、生きづらい。
優秀な人、気づきのセンサーが多い人で、真面目な人ほど、
適応障害になってしまいやすいと個人的には結論付けている。
日本という国の体質は、変化を嫌うところがあると感じている。
この国がこんなにも変われず、
テクノロジーで解決できる問題を放置し続けている様を横目で見ながら、
羞恥心が芽生えてくる。
日本人なんかに生まれなければよかった。
発達障害なんかに生まれなければよかった。
いっそのこと、すべてに鈍感だったなら、どれほど楽だっただろう、と思う。