ルドルフ・ヘス自身による証言・回想録の疑惑問題、及びヘスによる犠牲者数証言の変化について。
註:この記事は2020年11月30日に公開したものですが、2023年7月に翻訳を含めて記事を大幅に改訂しています。
アウシュヴィッツ収容所の初代所長(司令官)であり、かつ最もアウシュヴィッツ収容所長を長く勤めたルドルフ・フェルディナンド・ヘスは、戦後、一旦イギリス軍の捕虜になりましたが、その時は海軍に紛れ込んで逃亡中だったので元アウシュヴィッツ収容所長だったとは気づかれず、すぐに釈放されて、とある農家の雇われ農夫として働いていたところを、1946年3月11日深夜(あるいは12日未明)、イギリス軍憲兵隊にその農家を急襲されて逮捕されます。
ヘスはその後その身柄を、イギリス軍からニュルンベルク裁判所に引き渡され、同年4月15日にはニュルンベルク裁判において国家保安本部の長官だったエルンスト・カルテンブルンナー被告人の弁護側証人として証言します。
上記を読めばわかるように、非常に積極的にかつ詳細な証言を行っています。当然、完全なまでにアウシュヴィッツでの250万人のユダヤ人大量虐殺を認めています。また、この犠牲者数については同法廷にてアイヒマンから聞かされたものと認めており、ヘス自身はこの数字を多過ぎると考え、後に「せいぜい150万人」だと語っていたそうです。
さらに、その後ポーランド当局に引き渡され、クラクフの拘置所に勾留されつつ長期間にわたる予備尋問を受けたのち、1947年にワルシャワの法廷で裁かれ死刑判決、1947年4月16日、アウシュヴィッツ収容所敷地内で絞首刑に処されます。
ヘスはこうして死刑になるまでに、詳細な回想録を書いており、当然アウシュヴィッツでのユダヤ人大量虐殺についても所長の立場から詳細に記述していて、歴史学的に貴重な資料とされています。日本語版は以下で読むことができます。
余談ですが、この回想録の記述には、アウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺に関する記述以外(アウシュヴィッツ収容所長になる以前)で、嘘が多いと言われています。その一部は、下記日本語版に、編者であったマルティン・ブローシャートの脚注として幾つか記載されています。おそらく、ヘスも多くの人同様に自己を正当化する傾向があり、また死後の自らの評判を意識したのでしょうし、残された家族への配慮もあったからだと思われます。しかし、ユダヤ人虐殺については、命令で行ったものであるが故、ヘス自身がそれを否定する必要はありませんでした。
そのアウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人大量虐殺に関する記述を一部だけ以下で引用紹介しています。
ネットにはこの、日本でも文庫本で容易く誰にでも購入出来るヘスの自伝すら読まずに、否定論だけを述べる人がわんさかいます。必須とは言いませんが、読まずに議論するのですから、正直言って呆れるしかありません。
否定派は断じて、ルドルフ・ヘスによるアウシュヴィッツでのユダヤ人大量虐殺の記述を認めることはありません。ニュルンベルク裁判の証言や自伝の記述内容の通り、必要十分以上にユダヤ人虐殺の内容が詳細すぎて、認められるわけがないのです。
否認派の攻撃ポイントは主に二点あります。
1)ヘスは逮捕時に、逮捕されたイギリス軍の憲兵から拷問を受け、自白を強要されているので、信用できない。
2)ヘスの回想録や証言には内容に矛盾があるため、信用できない。
2)はいつもの通りです。不味い文書資料や証言はどんな難癖をつけてでも否定派は絶対に認めたりはしません。しかし、1)は暴行を受けたこと自体は事実のようです。でも、だからと言って信用できないの? という話なのですが、それは記事内容を読んでいただきましょう。この1)については、否定派がその拷問の論拠とする『死の軍団』について、私自身が同著を入手した上で、以下に記事を書いています。
今回は先ずこちらのコメント欄で、ueko1911さんにご紹介いただいた記事を翻訳して紹介します(ueko1911さんありがとう)。
これを翻訳紹介後に、もう一つ別の記事を翻訳紹介し、最後にヘスの述べた犠牲者数について私自身なりの考察を紹介します。
▼翻訳開始▼
ルドルフ・ヘス
拷問された自白?
アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスの発言とメモは、ナチスによるユダヤ人殺害の証拠としてしばしば引用される。従って、アウシュビッツ否定派はこの情報源を激しく攻撃している。たとえば、供述は架空のものであるとか、拷問によって強要されたものであるとか、ニュルンベルクの検事は捏造された無用な資料に依拠しているなどと主張する。
例えば、こんな感じだ:
ルパート・バトラー自身がバーナード・クラークのメモから引用しているため、これは二次情報、つまり伝聞である。この点が興味深いのは、「修正主義者」の二重規範(ダブルスタンダード)を物語っているからである。彼らはユダヤ人殺害の証拠に対して非現実的なほど高い要求をする。一方で、二次報告が、ユダヤ人殺害を否定する証拠としては十分だと言うのである。
しかし、この報告は特に参考にもならない。仮にこの文章をそのまま信じるとしても、ヘスが殴打され、残酷な扱いを受けたことはわかるが、自白が拷問によって強要されたことはわからない。バトラーは、ヘスが拷問者たちから作り話を聞かされ、それを確認しなければならなかったことについては一切触れていない。それどころか、一旦ヘスがこの話を始めたら、ほとんど止めることができなかったと書いてある(R.バトラー『死の軍団』237ページ参照)。
ルパート・バトラーの本をソースとして使うことで、アウシュビッツ否定派は、彼らが極めて不愉快な矛盾とみなすものを扱っている。なぜなら、彼らはこの本が真実を伝えていると思い込んでいるのだから、ソビボル収容所の破壊について著者が書いていることも、必然的に真実として受け入れなければならないからだ:
もちろん、アウシュビッツを否定する人たちが、一方を信じて他方を信じないという重大な理由を挙げない限りは、である。しかし、そのような正当性は欠落している。このような矛盾は解明されるどころか、言及すらされていない。
バトラーの本は、著者がそれをほとんど無視しし、自分の主張をソースとなる証拠で裏付けることをほとんど控えているので、いずれにせよあまり証拠価値はない。彼は明らかに、歴史的な情報に基づいた作品を発表するつもりはなかった。この本は情緒的に表現され、小説のように書かれている。歴史的な出来事について、客観的で、冷静で、事実に基づいた説明ではないことは確かである。
もし、バトラーの本だけを参照の枠組みとして捉えれば、様々な事実上の主張は、同じようによく―いや、同じように悪く―証明されることになる。片方を信じるなら、バトラーのもう片方も信じるべきである。この本の中のさまざまな主張の間には、信憑性という点で明白な違いはない。
しかし、バトラーの発言を検証するために、より信頼できる他の情報源を参照するならば、これらの他の情報源はそれ自体が非常に重要であり、もはやバトラーの本は必要ない。ユダヤ人殺害については、そのような信頼できる資料が大量にある。一方、ヘスが拷問を受けたという主張については、「修正主義者」は『死の軍団』のような怪しげな資料に頼らざるを得ない。
「修正主義者」はこの対立をいつもの方法で解決する: 彼らは自分たちの視点を確認できそうなものを選び、自分たちを不快にさせるものはすべて無視するのである。
ヘスが拷問を受けたという主張を裏付けるために、アウシュヴィッツ否定派は、ヘスがポーランドの刑務所で書き留めたメモを利用することもある。そこでは、ヘスは供述を強要されたと主張している:
ロベール・フォーリソンは、『イギリス人はいかにしてアウシュヴィッツの司令官ルドルフ・ヘスの自白を手に入れたか』と題する論文の中で、ヘスのメモからまさにこの一節を引用している。
しかし、アウシュヴィッツ否定論者にとっても、ヘスもこの文章でユダヤ人の大量殺戮に言及しているため、上記と同じ問題が生じる。ヘスの記録を歴史的証拠とみなし、虐待に関する彼の証言を真摯に受け止めるならば、ユダヤ人絶滅に関する彼の発言も決定的なものとして受け入れなければならない。
フォーリソンは読者に対して、このような不愉快な詳細は省きたいと考えており、他のアウシュビッツ否定論者と同じように、なぜ同じ文章中の一方の記述を信じ、他方の記述を信じないのかについて、説得力のある説明をすることを控えている。
ヘスもポーランドで拷問を受け、ノートに書き留めることを強要されたという主張も、すぐにわかるように、逃げ場がない。
ゲルマー・ルドルフはこの文脈で特に重要な役割を果たしている。なぜなら、彼の「意見」の中で、彼はヘスの自伝的なメモを拷問の疑いの証拠として言及しているのに対して、マンフレッド・ケーラーというペンネームで書かれた別の文章には次のように書かれているからである。
拷問で完全に精神が崩壊したヘスは、まさに拷問者たちの目の前で、拷問者たちによる虐待について自伝に書き留めていたのだから、それは彼の人格の崩壊と拷問の証拠となるようなものなのに、その文章は「マンフレッド・ケーラー」氏の言うように、書かれた紙ほどの価値もないのことになるのか?
この「修正主義的」議論の傑作に、これ以上のコメントは必要ないだろう。
多くのアウシュビッツ否定論者が単に「忘れている」もう一つの点は、ヘスがニュルンベルクで弁護側証人として呼ばれたという事実である:
また、ホロコースト否定論者は、ヘスの供述に実際にあった矛盾や疑惑を引き合いに出して、その供述が本物ではなく、連合国による偽造であったことを「証明」しようとすることもある。その一例が、アウシュビッツの死のキャンプの犠牲者の数である。最初の声明でヘスは数百万人という数字に言及したが、これは確かに高すぎる。しかし、ヘスはポーランドで収監されている間に書き留めたメモの中で、歴史研究の現状にかなり近い低い数字を示し、こう説明している:
これらの自伝的メモを決定的なものとみなす者は、必然的に、間違った数字を引用したヘスの説明も受け入れなければならず、アウシュヴィッツのガス室で実際に殺されたユダヤ人は250万人ではなく、100万人を少し上回る程度であったというヘスの訂正(註:このヘスの述べた犠牲者数については後述の私自身の記事で解説します)も受け入れなければならない――あることを信じて別のことを信じないという、よほどの理由がない限り。すでに述べたように、この点でホロコースト否定派から明確な情報は期待できない。
ヴィルヘルム・シュテークリヒもまた、その著書『アウシュヴィッツ神話』の中で、このバランス感覚を試みている。彼はまず、ヘスのクラクフ・ノートから虐待に関する部分を引用し、次に、このテキストの信憑性を揺るがすためにわざわざ前述のような文章を引用している。
もちろん、シュテークリヒは、なぜ一方の供述を受け入れ、もう一方の供述を受け入れないのかについてのもっともらしい説明も欠いているし、次の瞬間にその信憑性に疑問を呈する証人をなぜ使うのかという疑問に対する答えもシュテークリヒが負うべきものである。
アウシュヴィッツの司令官のメモは、アウシュヴィッツ否定派の不誠実さを示す好例である。彼らは、次の瞬間にはあり得ないと否定する文章を「証拠」として使っているのである。
▲翻訳終了▲
この記事については、ヘスの犠牲者数の変遷は別項で述べるとして、やや不満があります。
一つは、記事中で紹介されている『死の軍団』について、当記事の著者は明らかに「斜め読み」しかしていないことです。最初の引用文中にあるノベルト・マルツァーンなる修正主義者らしき人物が書いている「バトラーは自著の中でクラークのメモの抜粋を引用」は、明らかにフォーリソンの論文に影響されたものであり、実際には『死の軍団』には、この本の著者であるルパート・バトラーが英軍軍曹だったバーナード・クラークからどのようにして情報を得たかについては何も書かれていません(本の最初に「バーナード・クラーク氏から多大な便宜を図ってもらった」と書いてあるだけ)。フォーリソン自身は『死の軍団』の中のクラークが語ったのであろう当該箇所の記述から、フォーソンが勝手に「著者は、クラークが書いた、あるいは記録された発言の断片をいくつか引用している。(The author quotes several fragments of what are either written or recorded statements by Clarke.)」と述べただけであり、フォーリソン自身がバトラーに確認した気配は微塵もなく、これはどう考えてもフォーリソンが勝手に「便宜」の内容を推測して書いただけとしか考えられません。実際には、バトラーはクラークにインタビューして自身のメモに書き留めたことを、バトラーなりの推測を加えて書いたのかもしれないし(その可能性が大きい事はこちらで私が書いています)、クラークの日記を借りた、なども考えられますが、とにかく手段は何も書いていないのです。ですから、そもそもこの時点で、出典が明確でないのですから、『死の軍団』に書かれた事は歴史史料としては信憑性に疑問符がつくものになっているのです。細かい話かとは思いますが、調べが足りていないと感じます。
さらに、上の記事の著者が「二重規範(ダブルスタンダート)」にこだわって批判していることについては私も同意はしますが、ソビボルの例示は妥当とは思えません。その本を使用して論文なりを書く人が、その本の内容の全てに同意する必要はありません。そんな例は無数にあります。Wikipediaの記事が信頼できないからと言って、書かれていることの全部が嘘であるわけではないのと同じです(逆もまた然り)。ヘスの自伝にしたって、その記述内容にはヘス自身による嘘がいくつも書いてある事は分かっている(但し、その嘘は「正史」側の歴史家によって事実関係がきちんと調べられて判明している箇所に限る)わけで、そのような言い分は、ヘスの自伝の記述内容を証拠として使用するならば、それらの嘘も真実として受け入れなければならないことになってしまいます。この記事の著者は「あることを信じて別のことを信じないという、よほどの理由がない限り」とも書いていて、私のこのような難癖は理解していないわけではないのですから、全体としてもう少し丁寧な論述にすべきだったと思われます。
いわゆる「二重規範」がダメな理由は、ここで取り扱っている事例のような場合を考えると、ある事柄についてのWikipedia上の解説を引用してそれを認めつつ、他の事柄でWikipediaの解説を引用すると「Wikipediaなんか信用出来ないからダメだ」と批判するようなことです。修正主義者が一般に「二重規範」で批判される理由は、同じ規範を、あっちには適用し、そっちには適用しないというような、そうした「恣意性」あるいは「矛盾」にあります。ヘスの自伝では厳しい取り調べのことが書いてあることを修正主義者は肯定的に用いるのに、ヘスが同じ自伝で述べたユダヤ人虐殺のことは一切認めないとするのは正に恣意的です。ヘスの自伝が拷問の根拠になり、ヘスがそれ故に虐殺に関して嘘を述べていたとするならば、自伝に虐殺のことが全面的に肯定的に記述されているのは、修正主義者の論理には反しています。その論理に従えば、ヘスが拷問を示唆することを書いたのならば、虐殺については書かれるはずがないか、あるいは虐殺について裁判で述べたことが拷問であるが故に嘘だった、と書かれていなければならないのです。しかし、自伝の記述はそのようにはなっていないので、修正主義者の論理自身が恣意的で矛盾していることになるのです。
さて次は以上の件に関し、具体的にリビジョニストはどんな主張をしているのか、実例を紹介します。以下は、1996年2月28日にネットのどこか(メーリングリスト)に投稿された記事のようですが、かつての(今もありますが)反修正主義サイトとして有名なNIZKORに掲載されているものです。
https://www.nizkor.org/hoess-rudolf-ferdinand-on-torture/
▼翻訳開始▼
ルドルフ・フェルディナンド・ヘスの拷問について
マイク・スタインは述べた:
これにマンフレッド・コッホは返答した:
待て待て。
公判前取調べの全記録が公開されている。さて、コッホ君は、ヘスは拷問を受け、話を聞かせられたとまだ信じているらしい。唯一の論理的な結論は、彼は尋問が詐欺的なものであるに違いないと信じていることである――完全に捏造されたものであるか、尋問で実際に起こったことを反映していないほど徹底的に加工されたものであるかのどちらかである。
というのも、これを読めば誰でもわかるように、ヘスは拷問されて供述したのではないことが明らかだからだ。
もしコッホ君が、ニュルンベルク裁判の文書が完全に偽造されたものであり、その記録さえも信頼できないと考えるのであれば、なぜわざわざそれを論じるのだろうか? なぜ彼は、提出された証拠のひとつひとつ、すべての調書が完全に詐欺であると主張しないのだろうか? 結局のところ、連合国が単にヘスの発言の捏造記録をタイプするのであれば、なぜ彼らは、すべての証人、宣誓証言、そこで起こったことすべてについて、このようなことをしないのだろうか?
全部が捏造でないと誰が言い切れる? もしかしたら、裁判を取材する記者など実際にはいなかったのかもしれない(あるいは、彼らは全員ユダヤ人の嘘つきだったのかもしれない)! もしかしたら、被告は全員、徹底的に殴られ、拷問されたので、すべてが詐欺であったことを一度も明らかにしなかったのかもしれない! もしかしたら、すべてはハリウッドの作り話だったのかもしれない! 火星人が背後にいたのかもしれない!
コッホ君、私たちがいかに早く馬鹿げた結論に達するかわかるだろ。
馬鹿げた結論を避けるにはどうすればいいのか? 私たちは、ある合理的な受け入れ可能基準を満たす証拠を主張する。問題は、ヘスの自白が拷問やその他の強制によって引き出されたという証拠、つまり、何らかの合理的な基準を満たす証拠はあるのか、ということだ。
君が持っている証拠をすでに話してくれたので、それを見てみよう:
だから、ここに証拠がある:つまり、(1)バーナード・クラークは、「『自白』を得るために(ヘスを)拷問した」と説明し、(2)ヘスは、自白は拷問によって引き出されたと内々に語っている、と。
問題は、コッホ君、どちらもあまり良い証拠ではないということなんだ。実際、どちらもかなり悪い証拠だ。
(そしてさらに、ヘスが強制されたというあなたの主張を裏付ける_唯一の_証拠であると主張しよう。ヘスに関する「修正主義者」の主張を何年も研究した結果、私はこのように主張する。ちなみに、この主張は1995年12月11日以来、http://www.almanac.bc.ca/features/qar/qar19.htmlにずっとある―このようなインチキな議論がどのように反論されてきたかを知りたければ、NIZKORをチェックすることを強く勧める。)
では、なぜこれらの証拠が両方とも非常に悪い証拠なのか? まず第一に、どちらも伝聞である(そして後者は、後で述べるように、第三者の伝聞である)。さて、伝聞は常に許されないというわけではない。時には価値があることもある。しかし、「修正主義者」は、ホロコーストを「証明」するために伝聞証拠を受け入れることはない。このことは、偽善を暗示している。
では、この件ではどのような伝聞があるのだろうか?
まあ、ペーパーバック・ポットボイラーからの描写もあるし、誰も見たことのない秘密文書もある。
ルパート・バトラーの『死の軍団』というポットボイラーは、明らかに歴史的な正確さを念頭に置いて書かれていない。ある一節が頭に残っているので、記憶から引用しよう: 「クラークは警棒をヘスのまぶたの下に突き刺した。「豚の目を開けていろ、この豚野郎!」」
興味深いことに、バトラーの本は、ヘスは(イギリスの制服を着たユダヤ人かシオニストの諜報員によって)話を吹き込まれたという「修正主義者」の立場を否定している。諜報員についての言及はない。彼が決められたストーリーを与えられたという記述はない。それどころか、殴られた後、彼は話し始め、彼を止めることはできなかったと書かれている。
今は信じることができる。問題は、なぜヘスがおしゃべりキャシーに変身したとき、彼が語った話が同じ残虐行為の他の目撃者の証言と密接にかみ合ったのか、ということだ。マイケル・シャーマーは、ヘスとペリー・ブロードの証言が非常によく似ていることについて詳しく述べている。そして、この2人は他の証人とも一致している。ストーリーがどう似ているかについては、誰かに聞かれない限り、詳しくは述べない;ここでは、シャーマーの記事がSkeptic誌の2巻4号(pp. 52-54)に掲載されていることだけを紹介しよう。
しかし、私は「修正主義者」に質問を投げかけよう: もしバトラーの話が本当なら、そしてもし本当にヘスが、話を聞かされてもいないのに、自分で話し始めたのなら、彼の証言の正確さはどう説明できるのだろうか? 陰謀説に穴をあけるようなものではないか?
2つ目の文書について。あなたの脚注はとても印象的に見えるが、コッホ君の示した「R. フォーリソン、『歴史評論ジャーナル』1986-87年冬号、pp.389-403」についての問題は、ロベール・フォーリソンがその論文の中で、出典について言及できていないことだ! 彼は、モーリッツ・フォン・シルマイスターが、ヘスが拷問で自白させられたと言うのを聞いたと言い、それを証明する文書を持っていると言っている。
では、その文書はどこにあるのか? マーク・ウェーバーが彼に渡したものだ。しかし、どこから来たのか?それはわからない。フォーリソンは、この文書が誰から来たものなのか、誰が書いたものなのか、あるいはおおよそ何が書かれているのかさえ、自由に明かすことはできないと言っている。
行き止まりにつながる脚注は、まったく価値がない!
翻訳者註:モーリッツ・フォン・シルマイスターはヨーゼフ・ゲッベルスの宣伝省の上級スタッフでした。1945年にイギリスに逮捕されます。後にヴェーザー川沿いのミンデンにあるイギリス憲兵隊の尋問センターに連行され、そこからニュルンベルク裁判の証人として証言するために、ヘスとともにニュルンベルクに移送されています。その時に、ヘスがシルマイスターに語ったことを、シルマイスターが文書にしていたらしく、ここで述べられている文書はその文書のことを指しています。
反修正主義者側は、IHRのマーク・ウェーバーが入手したらしいその文書が、何年経っても公表されず、フォーリソンにだけコピーが渡っている程度で、その全ての記述内容等も公表出来ないと言っていることから、少なくとも史料扱いはできない、と見做しています。
しかし私自身は、特に偽造を疑う理由もないので、史料の一つとして扱い得ると思っています。失敗したなぁと思っているのは、ヘスが似たようことを言っていたとする記述をどこかで見た記憶があるのですが、それがどこにあったか覚えていないことです。しかし、イギリス軍によるヘスに対する取り調べが乱暴なものだったことは、ヘスが自伝にそうに思わせるように書いた通りであり(鞭とアルコール)、「500万人」のような出鱈目な犠牲者数を語らせるような尋問を行っていた事実はあるのかもしれません。但し、ヘスは「500万人」と述べた事実はありませんし、後述するように相当に正確な犠牲者数を述べています。
修正主義者側がこの文書を公表できないのは、おそらく修正主義者にとっては非常にまずい記述があるからだと思われます。憶測ですけど、この文書について、マーク・ウェーバー側からの情報は何もないし、フォーリソンだけが語っていることのようで、もしかしたらマーク・ウェーバーがフォーリソンに「一応、情報ですけれど、こんなものを入手しました、否定論に使えるかもしれませんが、非常に不味い記述もあるので具体的な公表は差し控えて下さい」と言っていたのに、否定論に役立つかもしれない部分のみとはいえ、かなり具体的にフォーリソンがその内容の一部を公表してしまった、のかもしれません。
だからこそ、証拠のルールを確立する必要があるのだ。コッホ君、どうやら君は、引用、提示、説明ができなくても、どんな文書でも認められるというルールで動いているようだねぇ。
では、私が2つの書類を所持しているとしよう、 アドルフ・ヒトラーの署名入りで、ガス室でできるだけ多くのユダヤ人を殺すようヒムラーに命じたものと、600万人を殺したことに感謝したものがある、とする。それでいいのか? もう議論は終わりにするのか? それで納得するのか?
もちろん、そんなことはない! あなたは私に証拠を求めるだろう(そしてそれは当然だ)。
だから、コッホ君、君の証拠基準は偽善的なのだ。Q.E.D.
証拠基準が偽善的な人と議論するのは無駄なことだ。
「立証されている」? まったくナンセンスだ!
これらの主張を裏付ける脚注は、行き詰まったものであれ、そうでないものであれ、一切提供されていないことにお気づきだろう。
どうだ、それを裏付けてみろ、コッホ君。ヘスの自白が「(彼を)死ぬ寸前まで殴ることによって得られた」という証拠があるのか? 彼の家族が脅迫されたという証拠は?
翻訳者註:この《「(彼を)死ぬ寸前まで殴ることによって得られた」という証拠》について、修正主義者は以下の『死の軍団』からの記述を引用することがあります。
この記述は、どうやらかなりの程度は事実のようなのですが、ここでの暴行は、「両親をアウシュビッツで死なせた逮捕部隊のユダヤ人軍曹たちの嫌悪感」からであり、自白を強要しているのではありません。付け加えると、医務官は明らかに「このまま暴行させるがままにしておくと、死んでしまうかもしれない」と思ったからそう言ったのであって、死ぬ間際になるくらい酷くなるまで放置していたはずはありません。実際に、ヘスがこの際の暴行で瀕死や重症になったことを示す史料はどこにもありません。取り調べ時のものであろう鼻血を出してる写真がある程度のものです。
しかし、『死の軍団』に書かれているように、家族が脅迫を受けていたことは本当でしょう。それ以外、ヘスの居処を知る術はなかった筈だからです。しかし、ヘス逮捕後も、家族が脅迫を受けていたので、ヘスは偽証を続けるしかなかった、とするような否定派の主張もあり得そうにありません。少なくとも、残された家族の誰一人、そんなことは言っていないからです。もしそんなことを言っていたら、家族と多少接触があったフォーリソンが黙っているわけがありません。フォーリソンは、ルドルフ・ヘス家族の当時の写真を何枚も現像して貰っていることを知っています。また、そのような脅迫を受けていたとするならば、ヘスが公開法廷やあるいはニュルンベルク裁判の心理学者であったグスタフ・ギルバートなどに対してその脅迫を暴露した時のリスクを考えてみて下さい。従ってそんな脅迫はあり得ません。当時のドイツ側被告が連合国による暴行を暴露するのは、それら被告の立場を有利にするためのものでしかなかったと思われます。そうした実態があったことを示す事例がこちらに記述されています。なのにヘスはそんなことは一言も言わなかったのです。
そんなものはない。
これについて考えてみよう。
一方では、「修正主義者」たちは、ヘスはストーリーを(連合国側から)吹き込まれたと主張している。
その一方で、収容所の名前を間違えていたり、毒ガスが人々を殺すのに要した正確な時間が違っていたりと、彼の話には些細な誤りがあることも指摘されている。
なぜ彼は_間違った_話を聞かされるのか?
それどころか、エラーは彼の告白をより強固なものにする、
それは、彼が台本を読んでいなかったことを示しているからだ!
「ヴォルゼック(Wolzek)」の場合、その場所の記述から、彼がソビボル収容所を指していることは明らかである。そして、ヘスは一度もソビボル収容所の名前に言及していないことに気づくであろう。明らかに、彼は単にその名前を間違えたのである。おそらく、「ヴォルゼック(Wolzek)」がその収容所の以前の名前であったか、あるいは、誰かがその名前を間違って報告し、それが彼の記憶に残ったのであろう。
翻訳者註:この「ヴォルゼック(Wolzek)」については、ニュルンベルク裁判でのヘスの宣誓供述書等に登場するものです。
「1941年6月」という時期もおかしいのですが、その議論はここではしません(簡単にいえばヘスの記憶の混同・混乱だとされます)が、「Wolzek」については明らかに「ソビボル」を指しているのですが、単なるヘス自身の勘違い(田中さんを佐藤さんというような)とも考えられるものの、別の説もあります。ドイツ語版Wikipediaによると、
とあります。いずれの説にしても、ヘスが何故「Wolzek」と述べたのかについて、特に証明されているわけでもありませんが、複数の説があるのですから、控えめに言っても、同様に証明されていない修正主義者の説のみが正しいことにはなりません。しかし、ヘスの証言内容を裏付ける膨大な量の証拠があるので、ヘスが「Wolzek」と存在しない絶滅収容所の名前を述べたからと言って、たかがそれしきのことで、ヘスの証言内容は否定されません。
そう、そして彼は後に、この数字はアイヒマンの事務所から出たものであり、それを信用していないことを明らかにした。殺害された人数についてのヘス自身の見積もり――約110万人――は驚くほど正確である!
(註;ヘスの述べた犠牲者数については後述します)
ここでの「明らかに」という言葉は、何の証拠もないという事実を曖昧にするために使われている。
ヘスは少なくともそれなりに英語を理解していたし、自白を翻訳して提出するのは当時のS.O.P.(標準業務手順)だったのだろう。
翻訳者註:ヘスが英語を理解していたことは、自伝にその記述はあることにはあります。ヘスは1924〜1928年まで禁固刑に処せられていたのですが、その間の経験として自伝に以下のように記述しています
とは言え、だからと言って、最初の尋問調書であるらしいイギリス軍によるNO-1210の記述内容を理解できたのかどうかは不明、というかそれはどうでもいいことのように思えます。理解出来ようと出来まいと、署名はしただろうと思えるからです。その上、このイギリス軍による調書であるNO-1210は、イギリス軍がヘスの最初の調書を取った、という意味があるだけであって、ニュルンベルク裁判や、その後のポーランド・ワルシャワ法廷での裁判、自伝には何の関係もありません。重要な事実は、その調書やニュルンベルク裁判での証言、ワルシャワ法廷、自伝など、ヘスの証言とされるものの間には一切矛盾がないことなのです。彼は一貫してそれぞれの証言間に矛盾がないことしか述べていません。従って、NO-1210に嘘が書いてあってヘスはそれを英語であるが故に理解していなかった、なる説はアホらしくて話にもなりません。この珍説を最初に述べたのはフォーリソンのようですが、欧米、日本によらず、フォーリソン教信者はどこにでもいるようです。
いずれにせよ、判決が下された後(そして拷問が行われていなかったことは確かである)に書かれたヘスの手記は、はるかに貴重な洞察を与えてくれる。その中で彼は、ガス処刑のエピソードを語り、自分が引用した死者数の根拠を述べ、捕虜がいかに愚かであるかを愚痴り、自分と家族以外のすべての人を非難し、反ユダヤ的、反ポーランド的なステレオタイプにふけり、一般的には、死刑囚となったナチスの死のキャンプの指導者が書くと予想されることを、拷問を受けていなければ、ほとんど書いている。
翻訳者註:「判決が下された後に書かれたヘスの手記」は明確に間違いです。ヘスの自伝原稿は紙の裏表に鉛筆で書かれたものだそうですが、総計237枚にも上るものです。
判決は1947年4月2日であり、死刑執行は同年4月16日ですから、たったの二週間でこれほどの分量の自伝を書けるわけがありません。ヘスは1946年5月25日にポーランドにその身柄を引き渡され、未決勾留囚としてクラクフの拘置所で過ごし、その間に自伝を書いたのです(『アウシュヴィッツ収容所』、p.19)。時折「ヘスは死刑を免れるために連合国の言う通りに自伝を書いたのだろう」と主張する否定派をやっつけるためか、「判決後に書かれた」と主張する人もいるようですが、それでは否定派をやっつけたいがための勇足にしかなっていません。ヘスが自身が死刑になることを自覚していなかった筈はないのですから、そのような誤った否定派への攻撃は不要です。ユダヤ人大量虐殺を行った収容所の所長を最も長く務めた人物が、どんなにその罪を赤裸々に認めたからと言って、極刑を免れるわけがありません。
そして彼はもちろんドイツ語で書いた。
繰り返すが、我々が学ぶべき教訓は、「修正主義者」は偽善的な証拠基準を持っているということだ。そして、偽善的な証拠基準を持つ人は、何でも証明することができる。そのような人たちは、事実や推論によって動機づけられることはない。そのような人と議論しても意味がない。
▲翻訳終了▲
途中で私が記述した、ヘスの証言に出てくるヒムラーが語ったとされる三つの絶滅収容所についての件の時期がおかしい件については、以下に長文引用したヘスの自伝の記述の最初の方をしっかし読んでほしいです。
なかなかこれが理解しにくい時期の混同話になっています。私自身は、こうした時期を混同したりして記憶の話をした経験が何度もあるので、こうした間違いがあることについては特に不自然には思いませんが、理解する側は大変だと思います。ともかく、このヘスの時期の混同は非常に複雑になっていて、単純に、ヒムラーの話を聞いたのは1941年夏ではなく、翌年7月にヒムラーがアウシュヴィッツを視察訪問した時のことだろう、では説明できません。私にも色々と考えはあるものの、具体的に可能な限り正確に解釈しようとするならば、ヘスの原稿自身に最も近いであろうドイツ語版を入手する必要があると思います(と言っても、ドイツ語なんて全然わからんので私自身は入手する意味がありませんw)。
ルドルフ・ヘスの語ったアウシュヴィッツの犠牲者数について
さて、時期の混同の話はさておくとして、もう一つ修正主義者がしばしば批判することの一つに、ヘスの語ったアウシュヴィッツの犠牲者数は、証言によってバラバラである、とするものがあります。Twitter辺りのホロコースト否定派が有り難がっているらしいTogetterまとめの記事があるのですが、そこにはこうあります。ツイ主は閲覧制限をかけているため、ツイートリンクを貼れないので、テキストコピペになりますが、以下引用です。
ここでは「「多めに殺した」と証言している、のような証言をヘスがどこでした?」のような重箱の隅突きめいた批判はしません。また、ニュルンベルク裁判での証言内容や、バトラーの『死の軍団』の内容はすでに示しているリンクを参照して確認してください。
また、「5百万人」は、モーリッツ・フォン・シルマイスターの文書にある数字であることもすでに述べており、文書の記述を事実として認めたとしても、そこでは、「ニュルンベルク裁判で250万人の数字を述べた」と語った上で、「500万人という出鱈目な数字だって言えた」のように述べただけのことであり、ヘス自身が公的に述べた数字ではありません。
さて、まずそれぞれの数字が、どこにあるのかを示したいと思います。
まず、現在のアウシュヴィッツ犠牲者数とされている110万人ですが、それはこちらに詳述されているそうです。(以下は、ヴァンペルト報告書の脚注からコピペしたテキストに、その資料の概要や紹介があるリンクを付加したもの)
Franciszek Piper, “The Number of Victims,” Yisrael Gutman and Michael Berenbaum, eds., Anatomy of the Auschwitz Death Camp (Washington D.C, Bloomington and Indianopolis.: United States Holocaust Memorial Museum and Indiana University Press, 1994), 61-76.
なお、日本の図書館にはないようで、立命館大学の図書館にだけ似たような本はあるみたいですが、内容までは分かりません。要するに110万人説は、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者であったフランチシェク・ピーパー博士の研究結果なのです。ネット上の否定派にもご存知の方はいると思います。この方です。
「Franciszek Piper」をポーランド語でどう発音するのが正確なのかよくわからない(日本の著名修正主義者は「Piper」を「ピペル」などと記述することが多いようですが、私は芝健介氏の『ホロコースト』に倣い「ピーパー」と表記しています。「Franciszek」の方はバラバラです)ため、私の他の記事上でも表記が統一的でない人なのですが、ともかくこの人が110万人説を発表し、現在まで世界的に認められているアウシュヴィッツの犠牲者数になっているのです。
150万人、とはアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館にある現在の石碑に書かれている数のことです。
この150万人と言う数字は、フランチシェク・ピーパーによる研究結果が出た後に、博物館の方で碑文を更新しようとなった時に決められた数字であるらしいのですが、ピーパーの研究結果の誤差の最大値だと、どっかに書いてあったのを見たような記憶があるのですが、出典を探すことは出来ませんでした。
博物館のウェブサイトだと、以下のように記述されています。
このピーパー博士による110万人については、ヴァンペルト報告書の方で多少詳細な概要が書かれているので、こちらを参照して下さい。
残るは、「3百万人」ですが、これは、ヘスのニュルンベルク裁判での証言にのみあるものです。
このうち、餓死・病死者数の50万人が出てくるのはここだけ(及びそれを述べている宣誓供述書)です。私が確認できた範囲内には、ここ以外どこにも述べられていません。250万人については、裁判証言でも自伝でもヘスは一貫して、アイヒマンから聞いた数字だとしています。
以上から、上のツイッタラーによる「尋問者の望む数字を証言したにすぎない。」は真っ赤な出鱈目であることがわかります。ヘスは、一貫してアイヒマンに聞いた数字として、50万人の餓死・病死者を除けば、250万人の犠牲者数しか述べていないのです。
ではピーパーの調査で判明した110万人との差は何かといえば、ヘスは正確な犠牲者数を事実としては知らなかったのです。これも、ニュルンベルク裁判ではっきりヘスはそう認めています。
当該ツイッタラーは、同まとめの別のツイートで、ヘスのニュルンベルク裁判の証言のあるリンクを示しているにもかかわらず、明らかに読んでいないのです。ヘスは正確な犠牲者数を知らないのですから、「百万人も多めに殺したなんてデタラメな証言」をすることはあり得ません。自伝にもこうあります。
このように、ヘスの証言は一貫しているのです。したがって、当該ツイッタラーのツイートは形容しようもないくらい出鱈目なのです。
さて、ではヘスは250万人しか述べていないかというとそうではありません。前述の翻訳記事中にも「殺害された人数についてのヘス自身の見積もり――約110万人――は驚くほど正確である!」とあります。この数字は何かというと、これも自伝に記述されています。
これらの数字を足すと、113万人になります。これは、ほんの5,000人程差があるものの、ヴァンペルト報告書に引用された、ニュルンベルク裁判で刑務所付き心理分析官を務めた心理学者のグスタフ・M・ギルバート『独裁の心理学』に記載された、ギルバートのメモによる引用とほとんど内容は同じです。ヴァンペルト報告書から引用します。
つまり、このギルバートの著書の記述に誤りがないとすれば、ヘスはニュルンベルク裁判所にまだいた時(1946年4月24日)に既に、「せいぜい150万人」と述べていたことになります。最後の「合計-1,125,000.」になる数字を既にこの時に述べていたかどうかまでは定かではありませんが、自伝では「今でもわずかに覚えているのは、アイヒマンやその代理からくり返し命じられた、かなり大規模な作戦の時の数字」と述べていますので、その時に既に述べていたとしてもおかしくはありません。
したがって、ヘス自身の推定値は「約100万人」とか、「約110万人」、「113万人」などと言われることが多いようですが、より正確には「アイヒマンかその代理から聞いていた大きな作戦の時の数字だけを足せば、113万人だが、それより多かったとしてもせいぜい150万人を超えることはないだろう」になると思われます。
いずれにしても、ヘスの証言は一貫しており、矛盾している箇所はありません。付け加えると、出鱈目ツイッタラーの言うように、百万人も多めに証言などしておらず、それどころかピーパーの推計値に非常に近い犠牲者数を述べていたのです。もっと言えば、ヘスはどっちにしたってソ連の400万人説をはっきり否定しているのですから、偽証はあり得ません。
以上。
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