「時給1万円で働ける人が家事をするのは非効率」という論理の乱暴さ①
「家事労働に賃金を/Wages for Housework」というフェミニズム運動が盛り上がった時期がありました。家庭の外で有給で働き、新たな「価値」を生み出す仕事を「生産/production」「生産労働/productive labour」と呼ぶのに対し、出産・育児を含め主に家庭で行われる家事は「再生産/reproduction」「再生産労働/reproductive labour」と呼ばれます。(避妊や中絶などに関する女性の権利を指して「リプロダクティブ・ライツ/reproductive rights」と言う際のreproductionは、この中でも狭く生殖(妊娠・出産)を意味しています。要するに、人間の「再生産」です。)この「再生産」の重要性に着目し、「社会的再生産/social reproduction」の価値を正当に評価することがジェンダー平等への第一段階だと主張するのが 'Wages for Housework' 運動の系譜です。
「家事労働の無償搾取が女性抑圧の根源である」
フェミニズムにおける社会的再生産理論/social reproduction theoryの第一人者であるSilvia Federiciは、その革新性について、「賃金が資本主義において果たす機能を、労働の階層の生みの親であり、搾取的な社会関係を自然なものとするとともに賃金労働者に非賃金労働者に対する権力を与えるのに与する仕掛けとして再定義した」ことだと述べています(Federici, S. (2019). 'Social reproduction theory: History, issues and present challenges'. Radial Philosophy, 2(04), p. 55. 筆者訳)。'Wages for Housework' 運動の思想的柱となった彼女の著書 "Wages against Housework" (1975) については詳しく書いている方がいらっしゃったので、参考として貼らせていただきます。
この文脈で「社会的再生産」が意味するのは、女性が当たり前のこととして担わされている家事労働は、経済において「生産」とされる有償労働を行う労働者を「再生産」する仕事であり、それなしでは経済活動が回らない社会の土台だということです。彼女たちは、それほどに死活的な労働が「無償」かつ「非生産的」なものとして見下され、女性に見返りなく押し付けられていること、そして、賃金労働者(男性)と非賃金労働者/家事従事者(女性)という権力関係が「家族」という仕組みに内在化されていることを問題視しました。ですから、家事労働への対価そのものが真の目的というよりは、家事労働の社会・経済にとっての重要性を認めさせることで、女性は「女性」であるというだけでそういった「再生産労働」を搾取されるという構造を覆すことだと言えます。
一方で、女性の搾取を終わらせることを目指しても、日々必要な「再生産」に係る労働が消えるわけではありません。それを誰がどのように担うのかと考えると、現代社会では実際に、一部についてですが、「家事労働への賃金」が異なる形で実現されていると見ることができます。ここからは、著名なジェンダー学者Nancy Fraserの著書『中断された正義/Justice Interruptus: Critical reflections on the 'postsocialist' condition』(1997)の一章 'After the family wage: A post-industrial thought experiment' (pp.41-68) を参照しつつ、米国型 'Universal Breadwinner' モデルと北欧型 'Caregiver-Parity’ モデルを「社会的再生産」の担い手の観点から検討した上で、ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)についても考察したいと思います。
①米国型:家事も市場経済に組み込めばいいという資本主義的論理
以前、東大で属していたゼミのOBOG会で先輩方と話していた際に、いわゆる「バリバリ」働いている女性たちから家事・育児との両立が大変だという話題が出ました。それに対し、一人の男性の先輩が、女性だってキャリアを追求するのは当たり前なのだから、東大やましてや大学院まで出たような女性が家事をするのは無駄だ、時給1万円で働ける人はそういう「生産性の高い」仕事をし、家事は時給1200円なり2000円なりでやってくれる人を雇えばいい、というようなことを言ったのを覚えています。確か経済学系のバックグラウンドで、かなりビジネスで成功している方だったと思います。そうやって家事を外注することで、本人がするのでは生まれなかった経済的価値が二重(本人が家庭の外でする有償労働と、雇われた人が行うことで有償となる家事労働)に生じ、経済活動にプラスであり、女性のためにもなるとあまりにも当然のように言われたので、私は密かに衝撃を受けていました。家事はそんな風に簡単に切り出して外注すればなくなるものではないし、何よりも、家事が、豊かな人はより安い賃金で雇える「能力/スキル/生産性の低い」人に押し付けてしまえばいい「取るに足らない/誰がやっても変わらない」雑用として片づけられたことに強烈な違和感を覚えました。
※家事は作業の寄せ集めではないということについて以前書いた記事はこちら↓
Fraserの文献で 'Universal Breadwinner' モデルとされているのも、これと同じような論理に則っています。米国等で目指されているのは、男女ともに一家の大黒柱となれるレベルの給与収入を得られる表面上平等な社会であり、男女に能力等の絶対的な差はない=全く同じ扱いをすれば公平であるという想定の下、家事・育児も市場経済においてまかなうという発想です。組織論で言えば、リベラル思想も同じ結論に至るでしょう。Fraserは、男女が等しく高収入の職業を得られるような理想的な社会を仮定したとしても、外注しきれない家事は女性の無償労働として軽視されたままで残り、女性はいわゆる「セカンド・シフト」をすることになると指摘します(pp. 53-54)。その上、女性が従来の男性の働き方に合わせる形になるため、結局のところ非常に男性中心的/androcentricです(pp. 54-55)。組織論のリベラル思想批判において言われるように、このモデルにおいて女性が仕事で成功するためには、「男性的な/masculine」な働き方、ふるまい方、考え方といったものを身に着け、従来の「男性性/masculinity」に根差した尺度で測られることを受け入れなければいけないのです。
※組織論についての記事はこちら↓
この方向性を「社会的再生産」の担い手という観点から考えると、資本主義、現代のグローバル化の実情が垣間見えます。市場経済に組み込まれた家事労働の多くは、特別なスキルを必要としない低賃金労働とされ、どんどんと経済構造の最下層に置かれた人たち――女性の移民労働者に担われるようになってきています。日本は大規模な移民政策を実施していないため、介護等の一部の領域に限られていますが、東南アジア(特にフィリピン)と中・東欧から西欧・米国への移民の女性が家政婦やベビーシッターとして働く例は顕著だと言われています(Parreñas, R.S. (2008). The Force of domesticity: Filipina migrants and globalization. NYU Press. など)。このように、「社会的再生産」であり広義の「ケア」とされるような仕事(育児、介護、看護など)が女性に集中するのは、従来それらは家庭において女性から無償で提供されてきたため、いわば女性の「天職」だと考えられ、「生まれながらに」「母性」や「優しさ」を持っている「女性」は苦労せずともできることだから低賃金で構わないというような思想が根底にあり、女性が多いことでさらに女性ばかりを呼び込むという循環が起こっているからだと言えます。
こうして、国、人種、階級、職種、学歴といった要因に応じて経済的に恵まれた立場にある女性が有給で「より生産的な」仕事をするために、自分よりも弱い立場の女性に家事を低賃金で外注するという構図が生まれます。女性の間でのこの搾取の関係は、フェミニズムが掲げる世界的な女性の連帯に亀裂を生みかねない深刻な問題としてしばしば取り上げられますが、世界的な連帯など正直夢物語でしかないと思ってしまうので、「ケア」のグローバル化だけが課題なわけではありません。それでも、全く他人事ではなく、数年後には私自身が悩むことになるかもしれない話なので、どうすればこの「搾取」という色合いが薄くなるのかずっと考えています。「社会的再生産」そして「ケア」は、そんな風に見下され、割に合わない仕事として社会の周縁に追いやられるべきものではないと思うのです――それは「暮らす」ということであり、人が人らしく生きるということそのものだと思うから。
②北欧型:家事従事者への生活費給付は解決策になるか
③ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)という発想
家事がネイルみたいになればいいな、なんて。
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