「家事労働に賃金を」、その問題点と重要性――Silvia Federici “Wages against Housework”, Revolution at Point Zero: Housework, Reproduction, and Feminist Struggle, Second Edition, PM Press, 2020. pp.11-18.のレビュー

 “Wages against Housework”(「家事労働に対する賃金」)は、イタリア出身のマルクス主義フェミニスト、シルヴィア・フェデリーチが1975年に発表したエッセイである。彼女は1972年に始まった「家事労働に賃金を」運動“Wages for Housework”に参加していた人物であり、本エッセイはこの運動のための理論的支柱となった。エッセイのタイトルに使われている前置詞が、運動の名称に使われているforではなくagainstであるのは、その立場を明確化するためである。つまり、家事労働への賃金を求めるといっても、賃金を与えられればその労働を甘んじて受け入れる、ということではなく、家事労働それ自体に抵抗するための賃金要求運動である、ということなのである。
 すでにこのエッセイが発表されてから40年以上の歳月が経過した。専業主婦の家事労働、つまり炊事や洗濯、掃除、子育て、セックスといった行為をすべて外注するとすれば月にいくらになるか、というような議論を一度は耳にしたことがあるかもしれない。家事労働の対価という概念は、それが受け入れられているかどうかはともかくとして、いまや広く知られているといってもいいだろう。しかし、時間の経過は同時にオリジナルの言説が持っていたエッセンスを忘却の淵に追いやってしまうリスクをもはらんでいる。繰り返すが、フェデリーチの主張はこうした俗流の議論とは一線を画するのである。
 フェデリーチは家事労働の細目をあげ、それに基づいて対価の計算をする、ということはしない。なぜなら、そうした計算はそもそも不可能だからだ。というのも、フェデリーチの言う「家事労働」とは主婦が家庭内で行う炊事、洗濯、掃除、子育て、セックスといった諸々の行為に限定されるものではない。「家事労働」とはまさに資本主義社会における「労働」の再生産行為そのものである。男性労働者への肉体的、精神的、性的「ケア」と言い換えてもいいだろう。フェデリーチによれば、資本は女性を夫である男性労働者に対する奉仕者servantとすることで、男性労働者が会社へ奉仕する仕組みをつくりあげている。資本―男性労働者―主婦という搾取の入れ子構造である。さらに資本は婚姻関係にある女性をモデルにすべての女性を規律訓練disciplineする(注1) 。その結果、再生産労働を担うことが女性の自然の属性natural attributeとされてしまうのだ。「たとえ結婚していなくとも、愛や結婚の名のもとに作動するこうした欺瞞は、私たちのすべてに影響を及ぼす。なぜならひとたび家事労働が全体的に自然化され性化されればnaturalized and sexualized、ひとたびそれが女性の属性になれば、女性である私たちのすべては家事労働によって特徴づけられるからだ(注2) 」。こうして、資本は「家事労働」が労働であることを、つまり「貨幣」moneyであることを隠蔽し、女性は家庭におらずとも「ケア」の役割を期待されることになる。あるいは、独身であれレズビアンであれ、女性は社会のどこにいても「家庭」に幽閉されているのである。
 フェデリーチの目的は、「家事労働」のこうした性質を明らかにし、それを廃することにある。「家事労働」に対する賃金の要求は、そのための手段にすぎないのだ。そしてそれが起点となり、「家事労働」を廃するばかりか労働者の資本への蜂起が起こることを期待するのである。「家事労働」をこのような広い射程でとらえるフェデリーチの主張は、社会や経済の状況が変化し、共働きや独身世帯が増えている今日においても古びてはいないであろう。しかし、そこに疑問点や問題点があることもたしかである。
 その問いはシンプルである。それは、「家事労働」に対する賃金を誰が支払うのか、また、誰に支払うのかというこの2点に尽きる。そしてこの二つの問題は互いに関連しあっている。
 まず一点目の、誰が「家事労働」に賃金を支払うのかということについてであるが、フェデリーチはこのエッセイ自体では明言していないものの、このエッセイが収録されているRevolution at Point ZeroのIntroductionではそれについて少し言及されている。曰く、「私たちはまた、夫ではなく集団的資本の代表である国家、すなわちこの労働から利益を得る真の「男」に賃金を要求した (注3)」。フェデリーチの主張から考えるなら、これは当然の帰結であろう。すでに搾取の対象となっている労働者の夫に要求するのでは資本主義の構造は保持されたままになってしまうし、なにより結婚している女性しか受け取れないことになってしまう。それでは「家事労働」は一般的な狭い意味に限定されたままだ。
 ひとまず次の論点に移ろう。つまり、その賃金は誰に支払われるのかという問題だ。フェデリーチの論にしたがえば、それは全ての女性ということになるだろう。しかし、そこで言われる「女性」とは誰のことなのか。フェデリーチは明らかに、古典的な男女二元論に立脚して議論している。生物としての女性はつねにすでに「家事労働」を強いられるのであり、そしてその経験こそが女性の抵抗点としてのアイデンティティなのだ、というわけだ。これはたんなる時代的限界として片づけてしまってよい問題なのだろうか? フェデリーチに限ったことではないが、「女性身体」に起因する経験を語るフェミニズムにはつねにひとつのリスクがつきまとう。すなわち、トランスフォビアに陥るリスクである。トランスフォビアはこうした言説につねに潜在するのであって、それはけっしてフェミニズムの言説の外部からやってきた異端などではないのだ。フェデリーチの議論では、トランス女性は「家事労働」の賃金受け取りから除外されることになってしまう。そしてこれが「誰が賃金を払うのか」という問題と結びつくと、事態はさらに悪いことになってしまう。つまり、国家に支払いを求めるとするなら、それは直ちに誰が「女性」なのかを決定する権能を国家にゆだねてしまうことになるのだ。
 ところで人類学者デヴィッド・グレーバーはその著書『ブルシット・ジョブ』の第7章において普遍的ベーシックインカムUniversal Basic Income(自分だけで生活していくのに十分な額の、無条件のベーシックインカムのこと。以下UBI)を主張するのだが(注4)、そこには家事労働賃金運動への言及がある 。そこではグレーバーと、80年代に国際家事労働賃金運動International Wages for Housework Movementに参加した女性との対話がなされるのであるが、それによれば当時の家事労働賃金運動は「「こうすれば実現できるよ」などというような計画というより挑発だった(注5)」のである 。しかし、彼女やその仲間たちはそれに与するなかで、UBIのアイデアへと進んでいったのであった。グレーバー曰く、ベーシックインカムの特徴は、それが「労働を生活から完全に引き剝がすこと(注6)」にある 。詳述はしないが、働かなくとも貨幣が支給されるということが重要なのである。家事労働への賃金要求もたしかに「家事労働」と生活の分離を目指すわけだが、その分離が達成された後の生活の物質的な基盤については考えられていない。
 それでは、このテキストにはたんにベーシックインカム論の前身としての評価を与えるだけで退けてしまってよいのだろうか。決してそうではない。労働と貨幣についての理論が精緻化していったとしても、その原初の問題意識に「家事労働」のジェンダー化という暴力があることは忘れられてはならないだろう。ベーシックインカムと「家事労働」の問題は同時に考えられなければならないのだ(もっともこれは、マルクス主義フェミニズムだけではなく、ラディカルフェミニズムとともに考えなければならない問題かもしれない)(注7)
 

 フェデリーチのこのテキストは厳密な理論というよりはスローガン、アジテーションであった。ここには矛盾も含まれているし、問題点もある。しかしながら、それは様々な議論を誘発する起爆剤であったし、決して陳腐化されるべきではない重要な論点をも含んでいるのである。



注1:奇しくも、1975年はミシェル・フーコーが「規律権力」を主題にした『監獄の誕生』が出版された年でもある。
注2:Federici, Revolution at Point Zero, p.14. このエッセイにおいて、フェデリーチはweやusといった代名詞で女性を、theyやthemといった代名詞で男性を指している。
注3:Ibid., p.5.
注4:デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』酒井隆史 他訳、岩波書店、2020年、345-364頁。
注5:同上、353頁。
注6:同上、359頁。
注7:この段落の記述は、私の大学院の先輩I氏による指摘にも負っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?