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「好き」の種類とセクシュアリティ

私たちは皆、知っています。名前の付いていない問題は見えないということ。そして、見えない問題はほとんどの場合解決できないということ。
キンバリー・クレンショー「インターセクショナリティの緊急性」TEDWomen 2016
https://www.ted.com/talks/kimberle_crenshaw_the_urgency_of_intersectionality
(8:31-8:41、筆者訳)

「インターセクショナリティ」という概念の生みの親キンバリー・クレンショーによるこのTEDトークは、アメリカで黒人女性が直面する差別が「人種」と「ジェンダー」というそれぞれの視点からだけでは説明できない複合的な問題であることを分かりやすく指摘した力強いものです。(インターセクショナリティについては改めて書いてみたいと思いますが、こなれた日本語訳も字幕として表示させることができ、おすすめです。)
 ただ、この記事で考えてみたいのは、物事に名前を付けて可視化し、定義を議論し客体として分析するという知の体系そのものです。私自身、何かについて「説得力を持って」伝え、議論するには、その内容が明確に定義付けられていて論理的に説明できなければいけないという前提の上に成り立った教育を受けてきました。言い換えれば、輪郭が定まっていない「感覚」では「真面目に聞いて」もらえません。ですが、これって、そんなに普遍的で当たり前のことなのでしょうか?例えば、黒船がやって来て西洋諸国に対して日本が開国することになった時、当時の政府が真っ先にしたことの一つが地図を作成して国境を明確にすることだったことはよく知られています。それまでは許されていた曖昧さが、突然許されなくなったのです。法律や画一的な教育制度の整備も似たような動きだと言えるでしょう。つまり、程度の差はあるとしても、このような定義付け・客体化という理解の仕方自体が啓蒙主義以降の西洋近代に特有なものだという可能性もあるのではないでしょうか。

「恋愛感情」とそれ以外の「好き」は根本的に違うのか?

少し抽象的なことを書いてしまいましたが、今考えているのは、「恋愛感情」の「好き」だけがそれほど特別なのかということです。私たちは子どもの頃から小説・漫画・テレビ・映画といったメディアを通じて、大きくなるとある(異性の)一人にだけ特別な感情を抱くようになって、その人と結婚するのが幸せなのだという価値観をなんとなく理解しながら育つと思います。ジェンダーの観点からも今の時代の個人の自由という観点からもつっこみどころは満載ですが、大筋はいったん置いておいて、この「特別な感情」って何なのでしょう?「恋愛感情」とそれ以外の好意は明確に異なるものだと当然視しがちな気がしますが、果たしてそうなのでしょうか?
 現在「恋愛感情」の先にあると考えられる結婚やパートナーシップですが、その相手に求めるものは人によって違うと思います。キスしたりセックスしたりしたい人であることもあれば、仕事の話をして高め合いたい人、趣味を一緒に楽しみたい人、愚痴を聞いて励ましてほしい人、一緒に子どもを育てたい人…これらが全部当てはまるのが今のパートナーだという人もいれば、そうではない人もいるでしょう。それでも、これだけ色々な「好き」は一緒くたに「恋愛」のカテゴリーに入れて、それ以外のパートナーとしては選ばない人への好意には「家族愛」「きょうだい愛」「友情」「師弟愛」「信頼」「絆」「憧れ」「尊敬」「推し」…といった別の名前を付けています。この「恋愛」とそれ以外の間に、そんなに歴然とした差があるのでしょうか?
 例えばベルバラなら、マリー・アントワネットとフェルゼンの間の感情は恋愛で、マリーとオスカルは主従愛、マリーからポリニャック夫人へは友情、ロザリーからオスカルへは憧れで、オスカルからフェルゼンへは恋愛だったけれど逆は友情で、オスカルとアンドレは恋愛だと、本当にそんな風に言い切れるのでしょうか?ロザリーはオスカルの「男らしい」部分を擬似異性として好きだっただけで、女であることも含めてのオスカルに対して恋愛感情はなかったと?もっと歴史を遡れば、先日友人との会話で、枕草子で描かれる敬愛には主従愛以上のものがあるんじゃないか、という話になったことがあります。あったかもしれないしなかったかもしれない。今となっては知り得ないというだけではなく、その時代には明確な概念そのものがなかったのではないかと思うのです。結婚は家のためにするものであり、同性のパートナーという概念自体がなかった時代、同性に対する好意をカテゴライズする必要はなかったでしょう。だから、本人にとっても、自分の感情をありのままに感じていればいいだけで、それに名前を付けたり、「正常な」感情なのかどうか悩んだりすることもなかったのではないでしょうか。
 セクシュアル・マイノリティに関する日本の歴史には無知なので、実際のところは勉強する必要がありますが、言いたいのは、本来人間の感情はもっと曖昧なものなのではないかということです。私たちはプログラミングされた機械ではありませんから、私たちの感情も有機的で、デジタルではなくアナログ、重複なく分類できるものではなくて複雑なグラデーションだと思うのです。

「セクシュアリティ」を分類すること

セクシュアリティという言葉も、そう古い用語ではない。興味深いことに、それが使われはじめたのは19世紀初頭、まさに近代の市民社会が形成されはじめる頃と軌を一にしている。
竹村和子(2018)『フェミニズム(思考のフロンティア)』岩波書店、p.48

ここまで来てやっと冒頭の、名前を付けて明確化するのは西洋近代思想ではないかという話に戻ります。「セクシュアリティ」という概念が定義されたのは西洋近代社会においてであり、その対象が異性か同性かというという分類がなされるようになりました。さらに、女の同性愛はレズビアン、男の同性愛はゲイ、どちらの性別も相手になり得る場合は両性愛/バイセクシュアル、というLGBの概念ができ、性的感情を抱かないエイセクシュアルなどセクシュアリティの分類は増える一方です。「世の中は男と女でできていて、男は女を好きになり女は男を好きになるもの」という固定観念が根付いてしまっている社会において、そうでない人がいることを名前を付けて明確にすることには大きな意味があり、それなしではこの固定観念を覆すことはできないでしょう。ですが、一方で、「そうでない人」全員に名前をつけて分類しようとすることは不可能であり、何より自己矛盾ではないかと思うのです。
 これまでの記事でも触れてきましたが、フェミニズムやLGBTQの運動の目的は根源的には決まりきった分類をなくすことでしか達成できません。あらかじめ定義の決まった分類があり続ける限り、どんなに細かく分けたとしても、どのカテゴリーにも当てはまらなかったり違和感を覚えたりする人がいると思います。セクシュアリティという概念だって、どの感情は「セクシュアル」なものでどこから先はそうではないのか、明確に線引きできるものではないはずです。「夫/妻のことは愛しているけどもう男/女としては見れない」とか、「セフレはセフレであって恋人じゃない」とか、色々なことを言う人がいるわけで、セクシュアリティも、重複しているけれど同じではない恋愛感情も、本来は輪郭が曖昧なものを社会規範に大方添うように形成しているだけなのだと思います。だから、自分を異性愛者だと思っているマジョリティも、LGBTQやセクシュアル・マイノリティとして括られる人たちと、そういった名前から受ける印象ほど劇的には違わないのかもしれません。異性愛者というカテゴリーにおいて「正常」とされる感情だけをセクシュアルや恋愛的な「好き」に分類して、この社会で生きやすい解釈をしているだけで、他者に対する好意は本当はもっと奥深くて、動的で、曖昧で、西洋近代思想の枠組みで分類しようとするからこそ拗れている部分があるのではないかと思ってしまうのです。曖昧さを曖昧なままに残しておく、そういうゆとりがあってもいいのではないかと思います。

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