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承認欲求の矛先はどこ?

こんばんは、イラストレーターのマルオです。

今日は、人は
「人に認めて欲しいのか」
「自分で自分を認めたいのか」
みたいなことについて考えを巡らせてみました。


人は誰しも「承認欲求」が
多かれ少なかれありますよね。

それは生まれつき備わっているものだと思う。

社会で、人の間で生きていく人間ならば
人から承認される、ということがどうしても
必要になってきます。

コミュニティの中では、当たり前に必要なこと。

「承認欲求」が存在するのは
当たり前のこととして、
その「供給先」が完全に外(自分以外の他人)
である場合、ちょっと苦しくなるのかなと
思います。

つまり、自分という存在を承認する、
ということを
100%他人からの承認に委ねてしまうと
常に周りに人がいないといけないし
ひとりになれない、のです。


自分という人間を
ひとりでは確立することができない

という状態は、
周りに承認を求め続ける、
周りから承認を搾取し続ける
ということになりますよね。

「承認欲求」を自分一人で
満たすことができると
誰もいなくても、誰も「私」を認めなくても
自分で自分を満たすことができる。

自己評価を自分単体でやってみる。


私、結構ちゃんとやってきたなぁ。
なかなか頑張ってきたじゃないか。
そんな自分が結構好きかもな。

とかね。

人と関わり合って生きるのは
素晴らしいことだと思うけれど、
誰かがいないと自分という存在が確立し得ない、
というのは自己存在として危ういですよね。

そういう思考で生きてしまうと
知らず知らず
人に依存したり
他人からの承認をむさぼってしまったり
自分をわかってわかって!と
やってしまったり
するのではないかなぁと。


人間は、きっと大昔から
人と関わり合い
承認しあって生きているけれど
そこに危うさも含んで
生きてきたのかもなぁなんて思います。


嬉しさや、苦しさや、
理想を求める気持ち、
共感したい気持ち。

人と関わることによって
そういう上がったり下がったり
たくさんの感情の波を味わうことが
人間なのかもしれないですけどね。

そこに翻弄され過ぎず、
まぁそんなものも持っているけれど
結構自分は自分が好きだな、
みたいに生きていけたら
肩の力が抜けてて楽ちんかなぁ
なんて思います。


自分を好きで生きていく、
自分を愛する、好む、
って結構盲点で。

普通はそんなこと
考えもしないかもしれない。

でもこれをやると、
何はなくともいつも少し幸せを感じて
生きていられるように思います。

条件なんかは要らなくて。
何かうまくできなくても
不器用でも
いつもこうなっちゃうんだよなぁ、でも。

自分と向き合う。

人の評価を入れずに、
純粋に自分と対峙する。
こんな時間を取ってみる。

誰かとの関わりの中で成立する「自分」
ではなくて
私が私一人、と向き合ってみる。


そうすると
自分はそんな自分がちょっと好きだ、と
思えたり
これからも一緒に歩いていくぞ、
みたいな感じにもなれるのかな、と思います。

今日のところはそんな感じです。
いつも読んでくださってありがとうございます。
それでは!


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