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「著者の意図を考える」ということについて、いつかの続き。

の続き。

前回は、「著者の意図を答えよ」という出題形式について、

非、とまでいうつもりはないが、出題の仕方として雑だと思う。

という話をしました。
今夜は、この出題のありかたについて、もうすこしだけ、自分が思っていることを書こうと思います。

その文章の価値や意義≠著者の意図

たとえば、平安時代に書かれた日記作品は、今日、当時の社会のあり方や個人のありかた、心の機微を果てしない時間を超えて伝えてくれる貴重な「文学作品」として、その地位を得ている。

例えば翻訳された蜻蛉日記や更級日記などは、誰でも気軽に読むことができるし、それから千年の時を隔てた時代を生きる私たちでも、共感することができる部分もたくさんある。

あるいはそれを私たちは一種の「普遍性」と呼ぶのだろうし、その普遍性を見つけるには、古いことばにも触れていかなければならない。
自然科学にせよ、人文科学にせよ、社会科学にせよ、底にあるのは普遍的なものへの憧憬。この世界は、社会は、私は、どのようになりたち、どのようははたらきによって、どのように動き、生きているのか。真実への探究心、といってもいいかもしれない。

古典文学が、今日に負う意味の一つに、そういう事柄を挙げるとして。

では、蜻蛉日記を書いた藤原道綱母や更級日記を書いた菅原孝標女は、自分の日記がそうなること−−千年後の人々が、日本人の普遍性を求めて、翻訳し、教科書に載せ、大事に大事に読み継ぐこと−−を目指して書いたのだろうか。

多分、そうではないと思う。

例えば今の時代だって、「時代を超えて愛される作品」が、千年を超えることを想定して呼ばれているとは思えないし、千年を超える作品を作ろうと思って作品を書く人はどれくらいいるだろう。

永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手に取ろうとしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
「現代文学を信用しないというわけじゃない。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ。人生は短い」
(「ノルウェイの森」村上春樹)

古典に例をとらなくても、そもそも著者の意図とは違うところで文章が価値を帯びる例なんてたくさんある。

さらにいうなら、文章の読み方(?)の一つに「テクスト論」と呼ばれるものがあって、どういうものかというと、

文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。ポストモダンの哲学者デリダもほぼ同時期に、自分自身のなかに立ち現れる純粋な「いいたいこと」がまずあって、それが文章として表現される、という考え方を否定している。「いいたいこと」は純粋にそれだけとしてあるのではなく、言葉と不可分に結びついて成り立つと考えるからである。こうしたテクスト論は、フランスのポストモダン思想全体の流れから見ると、文章というものに絶対の真理(著者が真にいいたかったこと)を求める姿勢への批判であり、「形而上学批判」の一つと見ることができる。
(「知恵蔵」朝日新聞)

と、これくらいにばっさりと作者を捨象した読みが、一つのムーブメントとして存在はしていたし、今日においても、この読み方への支持者は多い。
とは言え現在は、

しかし、近代日本文学研究では、バルトが峻別した「容認可能な複数性」と「還元不可能な複数性」の区別を曖昧にしたまま、ポストモダンの名の下に、解釈の一義性だけを否定した。その背景には「正解到達主義批判」もあるだろう。ここに、多様で雑多な〈解釈〉が、なんらの根拠ももたないまま、謂わば文字通り「垂れ流される」ように排出される状況が生まれることとなる。どのような〈読み〉も 許されると言う「ナンデモアリ」の混乱状況が招聘されたのである。ここに「読みのアナーキー」が現出することになる。
(中略)
学問としての自立性を喪失した近代日本文学研究は衰退し、その必然の結果として、ほとんどの研究者が〈カルチュラル・スタディーズ〉へ移行することとなった。 二〇〇〇年代から大流行する〈カルチュラル・スタ ディーズ〉は、文字通り〈文学作品〉をその時代の文化の様態を測る〈史料〉として扱い、作品の〈解釈〉や〈読み〉 は一切問題にしない。ある時代の文化や言説の編成やその変遷を知る術として作品を位置づけ、一人の作家にその時代がどのように受け留められ、またその作品がどのように流布し社会や民衆にどのように受容され、どのような影響 を与えたのかといったことが問題化される。こうして、自立性を失った〈文学〉研究を補綴するために、さまざまな隣接諸科学の知見の援用がなされることになるが、その選択は、研究者各自の課題解決のために最も有効な領域からの援用がなされ、問題設定の違いによって脈絡なく種々の援用が行われることになる。
(「近代日本文学研究上の課題と第三項論の意義に関する私論 ─ その序説─」山中正樹2015)

という状況だし、インターネット上に飛び交うことばを見る限り、もはや日本において「ちゃんとした」テクスト論に立ち返ることが可能になる日は来なさそうだけれど、一応、こんな考えもあって、そしてそれなりの支持を得て隆盛したわけだ。そこには、「作者の意図」はそもそも存在していないことになる。

もちろん、一方では「作者の意図を答えよ」という問い方は、「ナンデモアリ」な混沌に陥った状況に対する反省から生まれた問いかけであるかもしれない。そういう姿勢に貫かれる問いならば、私は、それを非とは言いづらい。

しかし、仮にそうした反省から発せられた問いだとしても、その寄る方となるのが「著者の意図」であるとするなら、それはそれでやはり心許ない、とも思う。何せ、前にも書いた通り、文章が著者の意図を一切減衰させずに反映している保証はないし、著者の意図がわかったところで、それによってその文章を世界の正しい位置に据えられるとは限らないからだ。

と考えると、そもそも「作者の意図を正しく読み取ること」が、「作品を正しく読み取ること」を担保する、とは考えにくいかもしれない。

…長いな。
続きはまたいずれ。

では、今夜はこの辺で。

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