「著者の意図を考える」ということについて、いつかの続き。
の続き。
前回は、「著者の意図を答えよ」という出題形式について、
非、とまでいうつもりはないが、出題の仕方として雑だと思う。
という話をしました。
今夜は、この出題のありかたについて、もうすこしだけ、自分が思っていることを書こうと思います。
その文章の価値や意義≠著者の意図
たとえば、平安時代に書かれた日記作品は、今日、当時の社会のあり方や個人のありかた、心の機微を果てしない時間を超えて伝えてくれる貴重な「文学作品」として、その地位を得ている。
例えば翻訳された蜻蛉日記や更級日記などは、誰でも気軽に読むことができるし、それから千年の時を隔てた時代を生きる私たちでも、共感することができる部分もたくさんある。
あるいはそれを私たちは一種の「普遍性」と呼ぶのだろうし、その普遍性を見つけるには、古いことばにも触れていかなければならない。
自然科学にせよ、人文科学にせよ、社会科学にせよ、底にあるのは普遍的なものへの憧憬。この世界は、社会は、私は、どのようになりたち、どのようははたらきによって、どのように動き、生きているのか。真実への探究心、といってもいいかもしれない。
古典文学が、今日に負う意味の一つに、そういう事柄を挙げるとして。
では、蜻蛉日記を書いた藤原道綱母や更級日記を書いた菅原孝標女は、自分の日記がそうなること−−千年後の人々が、日本人の普遍性を求めて、翻訳し、教科書に載せ、大事に大事に読み継ぐこと−−を目指して書いたのだろうか。
多分、そうではないと思う。
例えば今の時代だって、「時代を超えて愛される作品」が、千年を超えることを想定して呼ばれているとは思えないし、千年を超える作品を作ろうと思って作品を書く人はどれくらいいるだろう。
古典に例をとらなくても、そもそも著者の意図とは違うところで文章が価値を帯びる例なんてたくさんある。
さらにいうなら、文章の読み方(?)の一つに「テクスト論」と呼ばれるものがあって、どういうものかというと、
と、これくらいにばっさりと作者を捨象した読みが、一つのムーブメントとして存在はしていたし、今日においても、この読み方への支持者は多い。
とは言え現在は、
という状況だし、インターネット上に飛び交うことばを見る限り、もはや日本において「ちゃんとした」テクスト論に立ち返ることが可能になる日は来なさそうだけれど、一応、こんな考えもあって、そしてそれなりの支持を得て隆盛したわけだ。そこには、「作者の意図」はそもそも存在していないことになる。
もちろん、一方では「作者の意図を答えよ」という問い方は、「ナンデモアリ」な混沌に陥った状況に対する反省から生まれた問いかけであるかもしれない。そういう姿勢に貫かれる問いならば、私は、それを非とは言いづらい。
しかし、仮にそうした反省から発せられた問いだとしても、その寄る方となるのが「著者の意図」であるとするなら、それはそれでやはり心許ない、とも思う。何せ、前にも書いた通り、文章が著者の意図を一切減衰させずに反映している保証はないし、著者の意図がわかったところで、それによってその文章を世界の正しい位置に据えられるとは限らないからだ。
と考えると、そもそも「作者の意図を正しく読み取ること」が、「作品を正しく読み取ること」を担保する、とは考えにくいかもしれない。
…長いな。
続きはまたいずれ。
では、今夜はこの辺で。
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