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古典の知識を使って、今の日本語をちょっと解説してみる。

こんばんは。しめじです。

今夜は、古典の世界に出てくる言葉と、今の言葉が、実はこんなところでつながっているんだよ、という話をしようと思います。

と言っても、ほんの少しだけ、ちょろっと紹介するだけです。もちろん、同じ国の同じ文化圏の中で受け継がれてきた言語なので、つながっているのは当たり前。今夜は、そのつながりが見えやすい言葉をちょっとだけピックアップしようと思います。

情けは人の為ならず

多分、もしもこの記事を見かけた国語教師をされている方がいたら、「はい来たー」と思うだろう言葉ですね。べた過ぎて取り上げるのが恥ずかしいレベルです。

この言葉、文化庁が年一回のペースで行っている、言葉の使い方の調査で、本来の意味と違う意味としてとらえている人があまりにも多いということでニュースになりました。

この言葉、「情けは巡り巡って自分に返ってくる」という意味です。したがって、「他人に対しての情け(思いやり、やさしさを指します)の気持ちを持ちましょう」という意味です。

なんですが。この言葉、今の私たちから見ると「情けは人のためにならない(=情け無用)」と書いてあるようにしか見えません。

なぜ、このような違いが生まれるのでしょう。

実はこれ、「ならず」の「なら」が誤解されています。

この「なら」は、文語では「断定の助動詞「なり」」の未然形、と説明されます。高校の古文から離れて久しい方だと何ことやらさっぱり、あるいは聞き覚えはある気がする、という感じなのではないかと思います。

「断定の助動詞」って何かというと、今の日本語では「だ」です。

「私は日本人だ」の、「だ」。

つまり、「情けは人の為ならず」というのは、「情けは人の為ではない」という意味になるわけです。じゃあ、誰のためのなのか? 自分です。

という理由で、本来の意味のようになります。

ところが、今の日本語だと、断定の助動詞「なり」を使う場面は多くはありません。キテレツ大百科のコロ助の語尾だとか、「本日は晴天なり」とかでしょうか。(ちなみにいうと、「もしAならば」の「なら」も断定の助動詞ですよ)

結果として、この「なら」は、動詞の「なる」(「海賊王に、俺はなる!」の「なる」)と勘違いされて、今日のような誤解に至っていると考えられます。

奥ゆかしい

記事の写真は、「奥ゆかしい美しさ」という花言葉を持つ延齢草(えんれいそう)です。

「慎み深く、上品なさま」という意味の言葉です。「ゆかしい」ってなんだよ、と思ったことは無いですか? ちなみに「奥床しい」とも書きます。ますます、「床しい」ってなんだよ、と思ってしまいます。

「床しい」は当て字です。強いて漢字で書くなら、「行かしい」になるのでしょうか。

「ゆかしい」は、昔は「ゆかし」と言いました。「行く」という言葉が形容詞になったものです。

「行く」が形容詞(=ものごとの様子を表す言葉)になると、どのような意味になるかというと、「心がその方向へ行く様子=心がそれに惹かれている」ということです。

つまり、「ゆかし」は、「心惹かれる」という意味。具体的には、見たい、聞きたい、知りたい、という感情を指します。

ということで、「奥ゆかしい」は、「奥が知りたい」ということになりますから、「それにとても心惹かれる」という意味で使われ、誰かの心をとても強く惹きつける=慎み深くて上品な、素敵な人物、という使われ方をするようになりました。

以上、ちょっとした言葉のお話でした。

では、今夜はこの辺で。


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