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拝金主義の弊害

現代は拝金主義を信奉する人間が多いように思う。
拝金主義とは、広辞苑によると「金銭を無上のものとして崇拝すること。金銭を甚だしく大切にすること。」である。
要するに、金銭の価値を殊更重要視すること、世の中に存在する価値をもっぱら金銭に見出そうとすることと言っても過言ではないのではないだろうか。
しかし、殆どの人にとって現実に生活していく上でお金がとても大切なことは事実である。
殆どの人が毎日懸命に働いているのはまず自分が生活していかねばならない、また、家族がいれば家族を養わねばならないという目的がある。
だから、殆どの人間にとって働かなければいけないことは必然である。
そして、普通に考えれば、賃金・給料がより多く貰えれば貰えるほどそれだけ自分や家族が楽で快適な生活ができる。
お金を稼ぐというのは殆どの人にとってはそういう目的を達成するための手段である。
お金とは結局何らかの価値のあるものと交換するための道具に過ぎず、お金そのものに価値が備わっている訳ではない。
お金を貯めること自体に満足感、達成感を感じる人もいるかもしれないが、殆どの人はいずれ使う予定で貯めている。
学生であれば一生懸命勉強しているのは何のためか。
よりレベルの高い学校を卒業すれば就職の際に有利だし、より優良な会社に勤めることができればそれだけ高い収入や社会的地位を得ることができる。
それで安定した生活ができれば順風満帆で幸せな人生を生きられる可能性は高くなる。
事業を営んでいる人にとってのお金と生活のために使うお金は意味合いが違う。
事業を営んでいる人にとってはできるだけ多くの利益を生むことが主な目的である。
従業員が働いて事業を営んだ結果、目に見えるかたちで分かりやすい成果は利益である。
会社の利益は損益計算書や貸借対照表に表示される。
経営者にとって事業を営んだ成果を最も分かりやすく把握できるのはそういう財務諸表であり、会社の社長ともなると毎日そればかり気にしていると言っても過言ではないだろう。
しかし、経営者であっても——例えば株式会社であれば社長であっても会社が得た利益を自由に使うことはできない。
社長の給料や役員報酬を決めるには取締役会で一定数の役員の承認が必要である。
そして、経営者にとっては自身が貰える給料や報酬が生活の部分でのお金である。
僕が前述した事業を営んでいる人にとってのお金と生活のためのお金は意味合いが違うと言った理由は大体こういう事である。
資本主義の社会では殆どの物事に金銭が関わっている。
それ故、世の中にはお金で買えるものにしか価値が備わっていないように考えてしまいがちである。
そう錯覚してしまうほどお金というものを殊更重要視してしまいかねない社会に我々は生きている。
だから、日常生活で他人の言動の中に拝金主義的なものを見出した時、それを鵜呑みにしてしまって社会に対して偏った見識を持つようになったとしても不思議ではない。
それはあたかも疫病のように人から人へ伝播する。
しかし、その思想自体良いものであり、良い影響を与えるものなら何も問題はない筈ではないか。
僕がこの記事で問題にしたい点はそこである。
拝金主義という思想が広まることで社会に様々な悪影響や弊害が生じると思わざるを得ないのである。

お金というのは何もないところから生まれるものだろうか。
打ち出の小槌など現実にある訳ではない。
お金を生み出すにはどうすればいいか。
常識的に考えれば働くしかないであろう。
働くことは大雑把に言えば、何らかの価値のあるものを生み出す、あるいは取得して、それをお金と交換するということである。
昔から人類が営んできた農耕や狩猟もそうだし、鉱物など価値のあるものを採掘することもそうである。
店で客をもてなすこと、芸術作品を作ること、芝居や音楽などで観客を感動させることもそうである。
お金を生み出すには必ず何らかの働きが存在する。
働くことで何かの価値を生み出し、それをお金と交換する。
そのお金をまた何か価値のあるものと交換する。
お金とは結局、何か価値のあるものを相互に交換し合うためのツールでしかない。
そして、お金は普通働いて生むしかない以上、お金と仕事は切っても切れない関係である。
だから、お金という結果ばかりに捉われれば仕事という過程の重要性を軽視してしまう可能性がある。
拝金主義はスポーツに例えると、「試合に勝つために大事なのはより点数を多く取ることである」と言っているようなものである。
そう言われたらどう思うだろう。
「そんなことわかってるよ。点数をより多く取るにはどうすればいいの?」と思うだろう。
だから、スポーツで言えば、点数をより多く取るためには例えば、「練習を積み重ねる」「プレイの技術を向上させる」といったことが大事になってくる。
拝金主義をやたらと主張する人間にはその人なりの事情があると考えたほうがいいのである。
なぜなら、拝金主義を強く主張することによって他人に胡散臭い人間と思われかねないというデメリットが伴うからである。
お金を儲けることを第一に優先させていたら、人としての信用など大切なことを忘れ、お構いなしに何でもやりかねない。
「資本主義の世の中だからお金が大事なのは当たり前だ」という人は何もわかっていない。
すぶの素人がほざいているようにしか思えない。
資本主義というのは生産様式の一つである。
過去から現在までの生産様式には、原始共同制,奴隷制,封建制,資本主義制、社会主義制の5つがある。
大昔から支配する人間と支配される人間という支配従属関係が存在し、貧富の差があり、そういう歴史が繰り返されてきた。
資本主義は支配する立場が資本家と呼ばれる人達で、労働者から労働力を買い、それによって生産した価値を売って利益を得るという経済のシステムのことである。
だから、現代の資本家は過去の歴史で言ったら、封建社会の時代であれば貴族や武士などと同じような身分であると言える。
拝金主義を声高に主張する人間は、少数派でありながら積極的な姿勢のために目立つノイジーマイノリティと言ってもいいのではないか。
そういう人間の動機とは何か。
人それぞれ事情が異なっていて一概には言えないと思うが、自分が信じる思想で一人でも多くの人に影響を与えて感化させたいという思いもあるのではないか。
なぜなら、その思想が少しでも世に広まることによって、その人にとって有利であり都合が良いためである。
拝金主義は物事を評価する際の公平性、妥当性を欠くことに繋がりかねない。
また、信用を築いていくことによって対価を得るという努力が軽視されてしまう恐れもある。
価値観が偏り過ぎてしまうことで、投機的な投資にのめり込んだり、ギャンブルにのめり込んだり、なるべく楽して稼ぐという不健全な考え方に陥ってしまう危険性もある。
さらに、お金で買えるものにしか価値を見出さなくなることで、お金では買えないような大切なものを見失ってしまうことにもなりかねない。
信用、名誉、名声などは基本的にお金では買えないが、それらの重要性を見落としてしまう可能性などである。
このように拝金主義に陥ってしまうことによって様々な悪影響や弊害が考えられるのである。

仕事をするということはどういうことか。
比較的簡単にできる仕事と簡単にはできない仕事がある。
マクドナルドのバイトであれば1週間働けば大体の事はできるようになるだろう。
しかし、突然、「大企業の社長をやってくれ」「旅客機のパイロットをやってくれ」「医師になって患者を診てくれ」と急に言われたらできるだろうか。
大企業の社長を務めるには会社の業務に精通していなければならない。
付け焼き刃の知識では務まらないだろう。
会社の様々な物事を決断するのは社長である。
時として大勢の人間に影響を与える重要な決定も下さなければならない。
社長は会社の経営に全責任を負っていると言っても過言ではない。
旅客機の操縦は簡単な知識や技術ではできない。
レーダーなどの計器について知っていなければならないし、気象や地理についての知識、管制塔と交信する技術をなども必要である。
そして、時として何百人という乗客を乗せて飛行しなければならず、言わば乗客の命を預かるという責任を負わなければならない。
医師は毎日のように患者の病気と向き合わなければならない。
大病院であれば命に関わる大病で手術が必要な場合もある。
救命救急室であれば毎日何人もの重体の患者が運ばれてくる。
手術を担当する医師の技量次第で患者の生死が左右されることもある。
一朝一夕の知識や技術ではできない。
そして、時には患者の生死に対しての責任も負うことになる。
このように責任の重い仕事は一般的に高い技術や知識や能力を必要とする。
社長、パイロット、医師などの肩書きはそういう仕事ができるという信用を証明するためにある。
誰しも対価が同じであれば責任の重い仕事よりは軽い仕事を選ぶに違いない。
時給1,000円でマクドナルドのバイトか大企業の社長かパイロットか医師かどれかをやってくれと言われたら、誰しもマクドナルドを選ぶ筈である。
普通に考えて、責任の重い仕事で安い給料しか貰えなかったら、「やってられない」と思うのは当然だろう。
僕が例を挙げた人達はそれだけ社会で重要な役割を担っているのだから、それだけ多くの対価を受け取って当然なのである。
普通の会社員でも昇進して役職が上がれば上がるほど責任も重くなる。
出世するには会社にとって有用な人間にならなければならず、そういう実績や信用を長い年月をかけて積み重ねていかなければならない。
お金はそういう風に努力の先にあるものである。
自分にとっても他人にとっても良い仕事を成就させてこそ達成感、満足感、幸福感を得られる筈である。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」という三方よしという考えがある。
これは昔の時代、財を築いた近江商人と呼ばれる人達の経営哲学を表した言葉である。
自分にとっても相手にとっても世の中にとっても役に立つことこそが良い仕事だという意味である。
そういう仕事をやり遂げてこそ美味い酒が飲めるのではないか。
そういう健全な考え方こそ大切なことである。


2023.7.14加筆修正








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