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詩について(1)

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 詩は、言葉の前にある。

 詩は、言葉の芸術表現だけれど、言葉が言葉に成る前のところに詩は、ある。

 つまり、作品としての言語表現の詩の前のところに、「詩」というもの自体があるのだ。

 それが「詩情性(ポエジィ)」というものだと思う。

 日常生活のなかで、何気ないものや何気ない瞬間にふいに美的な酩酊を感じることはないだろうか。クオリアと呼ばれるような美的質感のひとつが詩情性(ポエジィ)という感覚だと思っている。それは味覚で言うなれば、珈琲やチョコレート、洋酒、煙草などの嗜好品の、仄(ほの)かな、複雑で膨(ふく)よかな味わいに似ている、と思う。

 言葉の前に詩があって、詩が言葉になることもあれば、写真になることも、絵画になることも、彫刻になることも、音楽、映画、漫画、舞踏、演劇、etc...になることもある。と、ぼくはこのように考えている。表現(express)される詩の前に、印象(impress)の詩がまずあるのだ。つまり、内(in)に押される(press)詩がまずあって、外(ex)に押し出される(press)詩として表現(express)され、世界を結ぶ。

 印象された詩が言語としての詩表現になる時、言葉でしか表現できない詩が生まれる。言葉には、言葉でしか表現できないものがあるのだ。それはまた別の記事で詳しく書いてみたいと思うが、現実にはありえない物事を言葉は、リアリティを感じさせながら仮構、虚構させることができる。言葉の表現としての詩には、そういう不可思議さと面白さがある。無意味だが切実な、名詩がある。

 また、詩は、音楽に近しいのだと最近よく思うようになっている。うつくしい詩とうつくしい音楽は同質のものを湛(たた)えている。それは、おそらくだけれど、霊気・霊魂というものだと思う。こう言うと、オカルトな意味合いで取られることがあろうが、それは、インスピレーション(in+spirit)と言う時の霊性のことでもある。(現代は神秘について冷笑的・懐疑的になりすぎているので、オカルトに映っても一向に構わない、と思いもするが。)詩や音楽、その他の多くの芸術作品にはインスピレーションと言う時の霊性が確かに宿っていて、その霊性が結晶化したり輪郭を帯びて作品化している。そして、時間の進行性が音楽と言葉の詩は近しいのだと感じる。絵画とは異なる。

 強い芸術作品はそれに触れた時に茫洋とした景色に誘うような、時空の認識や感覚を変える力を持っている。霊性を感じる時、人は離陸する。童話屋が出版しているポケット詩集という、日本の名詩を編集したシリーズがあるのだが、その第三集のまえがきで茨木のり子さんの言葉が紹介されていた。孫引きになってしまい大変に恐縮なのだが、、、「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)には、

「・いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。

・良い詩は瞬時に一人の人間の魂を、稲妻のように見せてくれます。

・自分の思いを深く掘り下げてゆくと、共通の水脈、つまり全体に通じる普遍性に達します。

・言葉が離陸の瞬間を持っていないものは詩とはいえません。

・詩の美しさは結局それを書いた人間が上等かどうかが、極秘の鍵をにぎっています。」

とある。「言葉が離陸の瞬間を持っている。」これが芸術の、作品が作品として自立・自律するか否かの重要な点だと思う。作品とはそれ単独でそれが初めからあったかのように存在するものだと思う。作者が当然いるのだが、作者を超えたところで作品は作品として立つ。鑑賞者を離陸させるのだ。


 作品に限らず、印象(impress)としての詩として、日常の中で何でもないものが詩的に輝くことがある。たとえば、宅配便が届いたあとの、なかば雑に破り開けた伝票のついた包み紙。公園の地面に木の枝で描いたであろう子供の無邪気な落書き。時間が経って黒茶けた果物の皮。

 詩は音楽と近しいと言ったが、音符ならぬ、詩符というようなものがあって僕はそれを日々採集している。それが創作と、生きる糧になっている。集めた詩符で詩譜をつくるような、そんな感覚で仕事をし、創作しながら日々暮らしている。


 詩は、言葉のまえにある。

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