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詩について(2)

 言葉は、「伝達」や「論理」のためにある、「手段」とは限らない。

 言葉には、「詩」という「目的」がある。


 言語は何よりもまず、「伝達」の機能を持っている。たとえば、「コミュニケーション能力」という言葉がよく聞かれるが、そこで測られるのは、対面での会話技術の高さのことである。身振りや表情と共に、声を使って、自身の想いや考えを伝えたり、社交的な関係を築くために私たちは普段、言葉を酌(く)み交わす。

 または「論理」を構築する時に、言語は強力に機能する。計画を立てる際や、何かを企画・企図する時、言葉の意味を序列的に繋ぎ合わせていくと、論理という建築的な骨格が出来あがる。そして、設計した論理を実行することで計画は達成される。

 多くの人は、このように言葉を「伝達」もしくは「論理」として、つまり言葉を「道具」として、手段的に使うことに慣れ親しんでいる。そして、我々の多くの思考の中心にあるものも、恐らくこの道具としての言語だろうと思われる。

 これに対して、言語は、一方でもうひとつ重要な機能として、「詩」というものを持っている。


 「詩」は、伝達や論理などの「道具的な言語」とは性質が明らかに異なるものである。つまり、詩は、言葉を「手段」ではなく、言葉それ自体を「目的」としている。正確には、詩は言葉の「美」を目的としている。言葉は言葉として、意味を超えた「美」をもっていて、それは、例えば、音の響き、字面の美しさ、意味と繋がれつつも言葉から起ち上がるもやのような不確実なイメージ、またそれらを文章として繋ぎ合わせることで、現実にはあり得ない虚構世界を生み出すことができたりすること。これら、言葉の「美」を作品として表出させるのが詩表現と言える。そして、詩は、伝達や論理としての道具的な言語から、言葉を解き放つ重要な機能を持っている。

 ここで、言葉というものの発生について述べたいのだが、言葉というのは、人間がこの世界を模写・描写することで初め、生まれてきたものと思われる。自然や環境世界を人間が観察した結果、物や現象、概念を、まず声で指示し、命名することから、恐らく言葉は生み出されてきた。例えば、天、地、太陽、月、星、山、川、森、花、虫、動物、人、朝、昼、夜、etc...。世界を観察して、世界の認識や感覚の差異を音声で分節することで、世界を言葉化し、共同体の中での音声の約束を人間はつくってきた。つまり、現実の物質的な自然世界の上に、言語のレイヤー、人間の社会的観念の階層が覆うようにして、言語は仮想的に存在している。

 言葉の発生の過程は恐らくそういうもので、自然世界の認識・感覚の差異が音声として対応し、模写・描写されることで初め、言葉は生まれたのだろうと思う。そして、言語空間とは、その言語の話者たちの共同体の中で伝承され、歴史の中で脈々と紡がれ続けてきたものである。言語空間という観念上の環境は、我々の血肉に無意識の裡に埋め込まれている。

 言葉の社会的な約束に基づいて、普段、言葉を道具のように操ることで、コミュニケーションしたり、論理を築いたりしている我々が、言葉は意味を表す物、伝達の手段という自明の意識から、距離を取るのは少々難しいように思われる。しかし、第二の自然とも言える言語の仮想世界は、言葉そのものが、まるで原初のものとも言えるような、あたかもそれ自体が第一の存在のようにも感ぜられる性質を持っていることに気づかないだろうか。先ほど、天、地、太陽、月、星、山、川、森、etc...と書いたが、この文字化された言葉になった自然物たちは、現実の存在のそれとは異なるものとして、言葉上独自の、独特な質感を持って存在している「感じ」が伝わるだろうか。それは抽象化、単純化されながらも、実像と繋がりつつ、不確実に無限な広がりをも持つ、固体的かつ、ミスト、もやのような感触をも知覚させはしまいか。

 ここまでの話から、言葉は、現実の事物・事象の意味やイメージ、実像との繋がりを持ちながらも、言葉は言葉として自立・自律した観念的な空間世界を築いていることに気がつくだろう。それは言葉の音響性と物質性と、それらから起ち上がるもやのような不確実なイメージ性、及びそれらを文章として繋ぎ合わせることで、現実にはあり得ない虚構世界を生み出すことができたりすることに深く関係している。そして、その自立・自律した言葉が喚起する「美」の世界が、詩の在り処である。言語表現の詩作品とは、恐らく言葉の発生当夜の、その原初性というのか、純粋性と呼べるような、言葉独特の美的なもの、その質感を観賞者に感じさせるもののように思われる。

 言葉を、情報を伝える道具としてではなく、まずそれ自体がひとつの自然であるということを意識すると、言葉の持つ不可思議さを改めて感じられるのではないだろうか。そこにある言葉の美、つまり音響性と物質性、意味と繋がれつつもそこから立ち上がるもやのような、ミストな不確実なイメージの質感に、耳を澄まし、目を凝らし、触れてみると道具を超えた言葉、詩の発生とその美を感じられるはずだ。それはもはや、情報としての言葉ではない。それが詩である。言葉そのものに目的がある。

 また、言葉を文章として繋ぎ合わせることで、現実にはあり得ない虚構世界を生み出すことができる、という「美」についての良い例がある。吉本隆明がある講演で、「コップに一ぱいの海がある」という立原道造の詩の表現を例に出して、言葉には言葉でしか言い得ない表現世界があるということについて述べていた。コップに一ぱいの海。現実には存在し得ない、虚構だがしかし瑞々しいものが言葉上、成立し、かつそれが不可思議なリアリティを喚起する。シュルレアリスムの絵画、ルネ・マグリットの絵画のような現実には不可能なものが、しかし絵画ではなく、言葉でしか言い得ない、時間と空間性のイメージの不確かさを持って、世界の自由自在さと不可思議な感触を与えている。


コップに一ぱいの海がある
娘さんたちが 泳いでいる
潮風だの 雲だの 扇子
驚くことは止ることである


 通常の意味からいえば、意味不明といえるかもしれない、しかし、美的で澄んだ諧謔性のあるイメージと開放感を湛えている。コップに一ぱいの海というときのコップと海の不可思議なスケール感の変遷。そしてその海で泳ぐ娘たちの華やかさ。言葉上、イメージが飛躍しながら仮構される、あり得ない時空の描写が、言語上においてのみ存在し得ている。

 詩には抒情的なものもあれば叙事的なものもあるが、無意味・無内容だが充実したものこそが、個人的には、詩作品の真髄といえるように思う。意味ではない意味性、内容が直ちに理解できないけれども読んだり、聴いたときに深い充足を感じるような表現が、詩という作品には確かにあって、それは言葉の自然としての不可思議さを表象している。例えば、ダダイズムという芸術運動における詩はそのようなものだろう。純度の高い強い意味を表現している詩ももちろんあるけれど、意味不明なままに美的に強く働きかけてくる、言語でしか表現し得ない詩作品というものが確かにある。意味不明な、しかし心と肉体が強く反応する、そういう言葉ならではの作品が確かにある。そのあたりのことは、今後の記事で綴っていきたいと思う。

 前回の「詩について」という投稿では、言葉が言葉に成る前のところに「詩」があると述べたので、それと矛盾するように映るかもしれないが、言語表現としての詩作品というのは、言語でしか表現し得ないものを言葉で表現したもの、であると言える。観念世界の社会的な約束を駆使しながら、情報的な尺度での言葉の意味性をほどき、言葉というひとつの自然に世界を啓(ひら)き、その美しさを結晶したものこそが、詩という言語作品といえるだろう。

 言葉を濾過し、調律し、彫刻することで、詩は描かれる。言葉の純粋性、美と快と、酩酊が詩にはある。意味を超えた言葉、非言語に向かうような言語の運動が詩作品にはある。

 詩は、言葉そのものに「目的」がある。


 ※ここまで、詩について述べてきたけれど、言語にはパロール(話し言葉、声、音声)とエクリチュール(書き言葉、文字、文章)があり、僕は、エクリチュール、書き言葉に強い関心がある。僕はパロールについての創作経験と知見がないので、僕が詩について語る時、それはほとんどエクリチュールを、念頭して語っていることに注意してもらいたい。

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