「不謹慎」を購入したい
「ブーム」なのだと思った。
6月に結婚式が増えるように、
同年代の出産時期が被るように、
身内が亡くなるというのは。
悲しい儀式をする割には、私たちは他人の悲しさには介入しない。
それどころか、自分たちが悲しみの中心にいるのだと思い込んでいる。
「死」という言葉が重いとか軽いとか、
そんなことについては議論などしてこなかっただろう。
言わずもがな、重く、そして、遥か遠くにあるものだと思いながら生きているからだ。
より多くの「死」と向き合うのは、20代半ばなのだろうと思った。
祖父母が亡くなったことはまだ記憶に新しい。
そして、知人もまた、同じ「死」を経験し、その文字をよく見かけた。
デジタルの上で見るものはなんでも、
アート化されてしまう。
ヒトの「死」だって。
祖父母が亡くなったとき、
少し、安心した。
そんな不謹慎は全て他人が作り上げた悲しみに包み込まれてしまった。
悲しみ、憂、切なさ、
そんな半端なものばかり、言語化されてしまう。
不謹慎さはどこでも見かけることができない。
まるで、人間として生きる上で課せられた条件かのように。
その不謹慎さを背負いきれずして、
人は寄り添うことを覚えるのかと思うほどに。
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