見出し画像

桜を見て思い出すのは、きっとサンドイッチだ


お花見だなんて気分でもない時に、

桜を見ながら歩こうなんて誘いを受けた。


桜がどこに咲いているのかすら知らない私と、

このルートが綺麗なんだと率先して歩く目の前の人。


桜の景色よりも、公園で食べたサンドイッチをよく覚えている。

知らない人が犬の散歩をしながら話しかけてきて、

きっと話しかけてきた人は日本人じゃないねなんて話をした。


それ以外は何も思い出せない。


その日本人ではないであろう人の顔も、

横に座る人の顔も、

桜ってどんなものだったのか、

お花見ってどんなものだったのか、


普遍的な生活に飲み込まれて忘れてしまった。


桜が咲くとき、

桜が散るとき、

「美しい」という言葉が飛び交い、


雨に散らされてしまった花びらを、避けられない道で、

同情を抱いた。


クリスマスのように

来年はうまくお花見というイベントに向き合ってあげようかなんて

ことを考えた。


サンドイッチ程度のことではなく、

どんな「桜色」だったか思い出せるほどには記憶に残してやるべきかなんて考えた。


こんな取るに足らない価値観というのは、「アート」だなんて言葉で片付けられるのだ。

対象が桜ではなかったら、ずれた価値観というのは批判材料になり、「アート」なんて言葉ではなく、もっと皮肉な言葉をかけられのだろう。


世の中の不条理というのは、

美しいものの前では役立たずだ。


それでいい。

どこまでも、

甘く、

温く、


虐げられることなく咲く桜を、

あっという間にヒラヒラと舞う桜を、

「儚い」といって感傷に浸ろう。








文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.