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ADHDかもしれない


最近「ADHD」という単語が自分の頭の中をぐるぐるしている。

それは、何気なく言われた言葉がきっかけだった。


いつも遅刻してくる私に対して、「ADHDなんちゃん自分」と言われたことだ。


今まで考えたことがなかった。

私生活に支障はでていないし、悩んだり、病院に行こうと考えたこともなかった。

でも、確かに私は「そういう人ADHDの人でよくいるよね」と言われてきたことが多かった。


言っている人はきっと特に意味なく、思ったことを口にしているのだと思う。テレビでよく聞くADHDの症状と私の性格似てるなあくらいの感覚で伝えてくれているのだろう。


しかし、今の今まで私は一切気に留めることはなかった。それなのに、何故今こんなにもそわそわするのだろう。


それは、自分が当てはまるという自覚を持ったからなのか。


分からない。



インスタグラムで、この旨について書いたところ、「僕も実は精神科に行ってテストをしてもらったことがある...」という返事が返ってきた。

この返信が、私の胸の中に渦巻くモヤモヤをより一層加速させた。


返信をくれた男性は10代の時に、一緒に社会人バレーをしていた先輩だった。あれから5年以上過ぎ全く連絡等はとっていなかったものの、私のインスタを見て「おせっかいかもしれないけど、他人事じゃないと思って...」と連絡を下さったのだ。


ちなみに私が載せた投稿というのは、

・頻繁に遅刻をする

・集中できない

・突発的に変なことを言う

こういう部分から友人に「ADHDではないか」と言われた。


という内容だった。


私は、この投稿をした時まだ自分とADHDとは全く無関係だと思っていた。それは、なんの根拠もない話ではあるが、とにかく友人も"例え"の一つとしてADHDと言っているのだろうと勝手に解釈をしていた。


そんな矢先の先輩からの返信だった。




胸がドキリと鳴った。





だって、

先輩は、「え、ADHDじゃないんじゃない?」と言うことはなかったからだ。私がそもそも「ADHDと言われた」と載せているので、その上でアドバイスをしてくれたのだとは分かっている。


でも、その時、「ああ自分は客観的に見てADHDの要素があると思われているのか」と思った。


それは、別にショックではなかった。


只、これ以上抱えるものを増やしたくないと素直に思った。


何かを背負うと、

いつか大切な人にカミングアウトしなければいけない。

自分を受け入れる時間が必要となる。

自分の個性と向き合い、人に伝える努力をしなければならない。



だから、ADHDだから嫌だとかではなく、単に自分で背負う自信がなく不安になった。


この話はつい1週間程前の話なのだが、あれから特に病院に行って診てもらったりはしていない。

でも、心の準備ができたら、一人で行ってみようと思う。






こんな時に、病院から帰ったら一番にこの人に報告しようと、思い浮かべる人がいることにとても感謝している。


私は何かと事前に相談というものができない人間だ。

こうしようと思ってることを伝えたり、

今こんなことで悩んでいると、

事前に友人に相談したことはほとんどない。



いつだって、事後報告なのだ。

事後を迎えるまでなんとなく、「いけそうな気がする」のだ。冗談ではなく本気で。どれだけ危機的状況でも、どれだけ、精神がすり減っていたとしても、なんとなく、このままでも大丈夫な気がしてしまう。


友人に気を遣っている訳でもないし、結果的に事後報告をし、相手にも色々と驚きやダメージを与えてしまい困らせていると思うので、直してみたいとも思っている。(いつかは)



でも、まあ、いつも事後報告でごめんねと伝えても、そんなこと気にしていないと、また楽観的な私の大切な人が受け止めてくれるのだろう。


また、こうやって、何かに悩み、考え、人の大切さを知った。


まだ自分がADHDであるのかどうかというのは分からないが、受け止める準備をしたいと思う。そして、支えてくれる人への感謝を忘れずに。









p.s

バレーボール時代はずっとセッターでした。

文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.