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やり切ったことはあるか?

おはようございます。

今日はタイトルの通り「やり切る」ことについて。

ふと、頭にパパーっと想いが湧いてきた時にメモ取ってありました。

短い人生でやり切る瞬間はあるのか?

結論から言うと、これまで「俺、やり切ったぜ」ってことは少ない。と言うより、ほぼない。強いていえば、学生時代〜社会人にプレイしたバスケかな。

バスケも、怪我が原因で徐々にフェードアウトしていった感じだったし。それでも、20年近くはプレイして、バスケ文化に触れて、やり切った感はあるかな。

ただ、国体選手に選ばれたとか、プロ選手になったっていうレベルではありませんけど。

本音を言うと、まだ、やりたい欲は残っている。脚の怪我が完全に治ったら、またやるかもしれない。

人それぞれ

「やり切る」っていっても、当然、人それぞれになっちゃいますけど。

私が思うに、一流のトップアスリートでも、一流の棋士でも、「やり切った」人は少ないんじゃないかと勝手に思っている。

オリンピックに出場しても、次の4年間が始まるように。

そこに山があるから「登る」みたいな感覚かなと。

きっと死ぬ間際まで「やり切った」なぁって思うことはないんじゃないかと思う。

あることに情熱を持って取り組んでいれば、「やり切る」ゴールは永遠にこない気がする。

だからこそ、チャレンジし続けるんだろうし、手に入らないから燃えるんだろうし。

幸福度に似ているのか

ドストエフスキーが『コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない』と残しています。

身近な例だと、車を買う時。自動車関連の雑誌を買い、どれがいいか迷い、新車か中古車か検討し、ディーラーへ行き、グレードに迷い、オプションに迷う。

買うまでの道のりが一番楽しいと思われているように、買いつつある瞬間が幸せであり、買った後は、所持欲と言うか、ステータスに酔っているだけなのかもね。

これと似ていて「やり切る」と言うより、進行形である「やっている」時が一番いい時なのかもしれない。

生きている間は、常に探求し、チャレンジし続けているということなのかもしれませんね。

私はとりあえず、脚のリハビリを「やり切り」(これは明確なゴールがある)、早く海へ行きたいなぁ。

今日も、ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

素敵な週末をお過ごしください。


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