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自己犠牲について

皆さんは、”自己犠牲”についてどう思いますか?

美しい、尊い?

それとも辛い・現実的じゃない?

もっとくだけた言い方をすると、自分のことは置いといても、相手が幸せになってほしいと思いますか?

この場合の「相手」は誰でも構いません。家族や親友など仲の良い、自分のそばにいる人でもいいし、仕事関係の人でもいいし、偶然通りかかった他人でもいいです。


例えば食事の時
自分ともう一人の人がいます。


二人ともお腹はペコペコ。


ただし、もう一人は自分の介助がないと食べられません。時間も自分の倍以上かかります。

ちなみに、感染予防のため介助をしながら一緒に食べることはできません。


皆さんだったら、どうしますか?

〇自分の食事は後にして、先にその人に食べてもらいますか?

〇それとも、その人には待ってもらって先に自分が食べてから、じっくりその人の食事介助をしますか?


ちなみに私は後者です。

それは自分勝手だと思う人もいるでしょう。ただし、今回私が皆さんに投げかけているのは「自己犠牲か、自分勝手か」ということではないんです。

自分がお腹いっぱいになって、その人がお腹ペコペコで泣いていても自分さえよければいいや!って寝っ転がっていたら、それは「自分勝手」と言われてしまうでしょう。

ここで話したいのはそういうことではなく、満たされる順番が相手が先か、自分が先かという「順番」の違いです。あくまで「相手にも満たされてほしい、幸せになってほしい気持ちがある」というスタンスでこの先の私の考え方を読んで頂けたらと思います。


先ほどの食事の例えに戻りますが、前者の考え方は「自分は我慢し、他人を先に優先する」もの。数式でいえば他人>自分ってことですね。日本人は特にそういった自己犠牲の考えを良し•美しいと感じる人が多いと思います。もちろん、私もそういう人は心から凄いなと思います。

ですが先ほど挙げた例でいうと、自分はお腹ペコペコな状態で、その人に適切なスピードでご飯を口に運んであげられるでしょうか?

お腹を満たすだけではなく、その人の気持ちを和やかにするような声かけを長時間続けられるでしょうか?


人は自分を抑えた状態で、どこまで相手に優しくできるのだろう?


自己犠牲の話を聞いたり、自分が我慢して人に尽くそうとしていたり、ドラマや映画でもそういうキャラクター(主人公に特に多いですが)がよく出てきます。確かにかっこいいけど、本当にそこまで誰かのために自分を犠牲にしていいの?って思ってしまう。

また、育児や介護をしている人のブログを読んだりドキュメンタリーを観たりしていると、自分を犠牲にしながら家族に費やす姿が辛くて見てられない時があります。

「いやいや、独身で介護経験もない人にはわからんかもしれんけどなあ…」って反論したくなる方もいるかと思うのですが、このテーマに関してはただフィクションや他の人の体験から空想して語っているわけではありません。

福祉施設で障害者(身体・知的)の支援をする仕事を経験した上で、自己犠牲について書いています。

具体的な仕事の話については、また別の記事で書こうと思いますが、私は障害を持つ利用者さんの身辺(トイレ、食事、更衣等)の介助や、より充実した日常生活を送れるよう個別に目標を設定し、活動(散歩や絵画、レクリエーション等)の支援を行う仕事をしています。現在6年目です。

最初の食事の話は、まさに今置かれている施設での食事の状態です。職員と利用者は別々に食べなければいけないけれど、どちらが先に食べるか。

福祉の仕事に就いているなら尚更、自分よりも自分で食べられない人に食べさせてあげてから食べるべきだ!たとえ自分が何時間待つことになったとしても!

と考える人もいるでしょう。確かにその考え方は福祉に携わる人間の理想像なのかもしれません。実際、私が働く施設の職員は皆そうした自己犠牲ができる人ばかりですよ。

でも、私からすれば「冗談じゃねえ!こっちだって人間だ!」って物申したいんです。

障害や病気のあるなしがあるにせよ、自分も相手も同じ人間。お腹がすくと思考力が低下し、イライラしやすくなります。いくら資格があったって、年数を重ねたって、自分の気持ちに余裕がなければその人のための100%の支援はできないです。

私は仕事は始業時間の1時間以上前に出勤して、デスク関係の仕事をできる限り片付けてから現場の仕事に入るようにしています。

できることは終わらせて、気持ちに余裕をもって利用者さんと関わりたいからです。

しかし、この空腹という生理現象を始め、どうしても「自分が先か、相手が先か」を考えなくてはならない場面が出てきます。食事でいえは、私の職場は職員が交代しながらなるべく先に食べられるようなシステムにはなっているのですが、職員が少なかったり利用者が多い日(通所施設なので日によって利用者さんの数は異なります)は食事準備やトイレ介助に追われ、どうしても職員が先に食べることができない日もあります。

空腹でイライラしつつ、どうにかこうにか食事介助を済ませ、1時間以上ラップもかけてもらえず放置された冷たい食事を食べます。食べている間にも、歩き回っている利用者さんが転倒したりしないか見ながら食べています。

本当に私にとってはめちゃくちゃストレスが溜まる場面です。自分が先にご飯を食べて、気持ちに余裕を持った状態で利用者さんに介助できればどんなにいいか…。

ご飯に限らず、自分のことは差し置いて他人のために頑張らなければいけない職場ですが、私はこういう職種だからこそ、自分のことを先に終わらせて、気持ちに余裕を持っておくべきだと思うんですよ。

育児や介護もそうだと思います。

ブログを読んでいると、ワンオペ状態の育児や介護、共働きで家では子供の世話でいっぱいいっぱい。その結果、うつで精神的にボロボロ…なんて話を目にします。

「愛する家族のためなら自分がどうなってもいい!」なんて考え方は現実的ではありませんし、理想の育児や介護ではないと思います。

もっと自分を優先したっていいんじゃない?と。

でも現実問題、それが難しい社会なんですよね。働き方改革とか言ってるけど女性の方が負担がまだまだ大きいと思いますし、介護職の離職率の高さからも仕事内容のハードさがひしひしと感じられます。

もちろん、いつでも「自分が優先」なんて訳にはいきません。自分が我慢をしなければいけない場面は必ずあります。でも、今の日本人の生活スタイルって、「自分が我慢」の場面が必要以上に多いんじゃないかなと思うんです。

「我慢=愛」という風潮が日本の社会は強すぎる。そんなに我慢して自分を抑えてまで、人に尽くす必要があるのかなって。

自分が我慢しすぎてつぶれないためには、やはり自分一人で抱え込まず、家族なり友人なり、もしくはヘルパーや施設に頼って負担を分散させるというのが現実的なやり方なのだと思います。

現に私も昨日、職場で自分の昼食は後回しになりそうだった所を先に食べていた先輩が「代わるから食べてきな」って声を掛けてくれて助かりました。おかげで自分のお腹を満たして心身安定した状態で利用者さんの食事介助を行うことができました。


自分が満たされていないと、人に優しくするのは難しい。

これが6年間福祉の現場で働いてきて、色々あって自分を客観的に見た結果たどり着いた、もっかという人間のリアルです。

「冷たい」「自分に甘い」「福祉職向いてない」って思う方もいると思います。特に仕事に関しては実は退職を考えているところです(これも詳しくは別の記事に書こうと思っています)。「相手が先」が難しい自分の特性上、この仕事をしていると毎日色々なところからストレスが噴出します。

逆に言えば、「相手が先」が自然にできる人は、福祉・介護職はめちゃくちゃ向いています。就職や転職で考えている人は是非参考にして頂ければと。


さて、つらつらと書き連ねてきましたが、「自己犠牲」について、皆さんはどう考えているでしょうか。

ここまで3,000字超えの文章を読んで頂いて恐縮なのですが、ぜひコメントもお待ちしています。自分と同じ独身の人、育児や介護を頑張っている人、同じ福祉職の人…「自己犠牲」について、様々な立場の人の意見を知りたいです。私とは逆に「相手が先」の順番ができる人の考え方も知りたいです。職場でも思いますが、これが自然にできる人は本当に羨ましい。

なんだかこの記事を読んで私を嫌う人も出てくるかもしれませんが、あくまで私は自分も周りにいる人も幸せでいてほしいと思っています。「自分も笑顔、相手も笑顔」がモットーです。

noteでも、読んだ人が笑顔になれるような記事を書けるようになりたいと思っていますよ!(テーマによってはいつでも楽しく笑顔で…とはいきませんが、音楽の話やイベントの話とか、趣味のことについては明るく楽しいテンションが皆さんに伝わるよう心がけております)

生きていると色々な壁にぶち当たる世の中ですが、自分もみんなも楽しく生きていたいなー!という思いで今回の記事を書かせていただきました。

ではまた次の記事で!



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