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自叙伝

これは、人生や生き方に悩み続けていた私が、動画クリエイターとして
制作のお手伝いができるようになった現在に至るまでのストーリーである。


やりたいことが見つからず、何事も中途半端になってしまったり、
生き方に自信が持てなくて、自暴自棄になってしまったり、
本当はクリエイターになりたいけど、もう年だから…と諦めようとしている
そんな方たちに、ぜひ、読んでいただきたいお話です。

<1.誕生〜幼少期>

1989年7月14日。
私は滋賀県長浜市で生まれた。

父と母、それに兄と姉がいて、私は3人兄妹の末っ子だった。
父は、中学校の体育教師をしていて、仕事一筋の真面目な人。
母は、元幼稚園の先生で、共働きをして家庭を支えながら、
身体の弱い私をいつも気遣ってくれていた。

私はしょっちゅう高熱を出すので、家では
お絵描きをして遊ぶような子どもだった。
4歳のクリスマスの時には、サンタクロースに
24色入りの色鉛筆をお願いした。

くまのイラストを紙の上からなぞっただけの絵でも、
母に見せると、やけに褒めてくれたのが嬉しかった。

幼稚園や小学校に上がった時、気が付いたら
私の周りには絵の上手な友達が多かった。
私より描くのが上手い友達の絵を見ると、
ちょっと悔しかった。

でも、さほど気にならなかった。

私は教育熱心な両親に育てられ、ピアノに習字、
水泳や陸上など、さまざまな習い事をさせられ、
目の前のことでいつも手一杯。

だけど、上手くいかないことがあると、
すぐ嫌な気持ちになり、結局習い事は
どれも長く続かなかった。

唯一、長続きした趣味は、
自分の意思でやると決めた
バスケットボールとお絵描きだった。

バスケは厳しいコーチの指導もあったが、
自然と上達が早かった。

小学6年生にはクラブのキャプテンを任され、
チームを引っ張っていく存在になった。

友達もたくさんできて
毎日学校に行くのが楽しい
そんな小学生だった。

<2.中学〜短大時代>

中学校になり、新しい友達も増えた。
と同時に周りの人間関係も大きく変わった。

少しでも人と違ったり、目立ったりすると、
不良たちのいじめの標的となった。

いじめられている人を見ると、
私もいじめられまいと必死だった。

私は個性を無くすことがこの世界での生き方だと思い知り、
人と同じものを好み、全てにおいて消極的な行動をとるようになった。

そんなある日、私は比較的仲の良かったクラスメイトから、
突然無視されることになった。

それからは勉強に全く身が入らなくなり、学校も休みがちに。
ますます挫折の連続だった。

この頃、私の好奇心の対象は、
専らインターネットだった。

家にあったパソコンで、インターネットの世界に没頭した。
掲示板やチャットで人と会話したり、
パソコンで絵を描く遊びを覚えたのだ。

完全にパソコン依存症だった。

親に反抗しながらも、高校受験をすることになり
無事に希望の高校に入ることができた。

だけど、高校でもできるだけ目立たないように
普段は息を潜めるかのように、高校生活を送っていた。

部活は演劇部に所属した。
部員の仲間たちと一緒に舞台を作り上げていく。
その工程や感覚が、私の青春そのものだった。

役を任せてもらえた時だけ、私は自分らしさを取り戻し
表現者になれた気分だった。

高校でも勉強はあまりせず、これといって
やりたいことが見つからないまま、大学を受験した。

しかし、結果はことごとく不合格。

浪人を希望したけれど、そんな金銭的余裕はどこにもなく。
滑り止めで受けた東京の短大に進学した。

<3.東京上京〜社会人〜不眠症になるまで>

憧れの東京。
地元を離れることによって、世間体を気にしたり、
変な価値観に縛られることが次第となくなっていった。

東京ではアルバイトを経験し、色んな人と出会ったり
もっと広い視野で物事を見ることができるように
海外留学も経験した。

だけど、一向に自分のやりたいことが見つからなかった。

自分のやりたいことってなんだろう?
なんの取り柄もない自分にできることなんてあるのかな?
自分ってなに?

自問自答の挙句、ほとんど就職活動をせず、卒業。

結局、また地元に逆戻りし、親戚の会社にお世話になった。
思考停止のような状態の生活が、約5年ほど続いた。

ある日、ITエンジニア派遣の会社に転職することになった。

そこで、ある程度はITに関する経験と知識が身についた。
次の転職先で、ようやく自社開発製品の
インフラエンジニアになるまで成長した。

しかし、どこに行っても人に言われるがまま。
生活するだけで正直精一杯だった。

次第に将来への不安が募った。

上司からの圧力もあり、仕事を終えた後も
夜眠ることができず朝を迎えることが何度もあった。

不眠症だった。
仕事に出社するのが辛くなり、医者の勧めで
しばらく休職することになった。

<4.休職期間中〜価値観の変化>

せっかくこれまで努力して、エンジニアになったのに
今までのキャリアを手放したら、何もかも0になる。
これからどうして生きていこう…。

この時、たまたま知り合った人と結婚した。
価値観が一緒で、私の全てを受け入れてくれる
懐の大きい人だ。

だけど、決して生活は楽になることはなかった。
むしろ、共倒れの危機すらあった。

世の中は便利になっていくのに
生活は一向に豊かにならない。

不安はますます大きくなった。

会社員を続けながらどうにか
副業で稼げる方法はないか
模索する日々が続いた。

<5.動画制作スクール〜人生観の変化>

ある日、動画制作スクールの代表と知り合った。
そこでフリーランスの動画クリエイターとして
活躍されている人が大勢いることを知った。

高品質で高単価な映像の作り手であれば
収入は青天井になることを初めて知った。

正直、最初は半信半疑だったし
自分にもできるようになるのかかなり不安だった。

でもここで諦めたら、諦め続けの人生になる。
そんな人生は絶対に嫌だ。

この時、目的や問題意識がないと
人は変わらないと身に染みた。

勇気を出して、私は動画制作スクールの門を叩いた。
それが私の人生を大きく変えることになった。

途中つまづくこともあったけれど
完成した作品を見ると達成感でいっぱいだった。

私はクリエイティブなことをして仕事をしている人や
フリーランスに密かに憧れていたんだ。

でもなにかと理由をつけて「私には無理」と諦めていた。

私もクリエイターになれるのかな?
どうしたらその人たちみたいになれるんだろう?

そんなことをぼんやりと考えながら
毎日を過ごしていたある日
1本の動画制作依頼があった。

スクールで学んだことを活かして
制作の過程は順調に進み、成果物を納品した後
クライアントがとっても喜んでいるのを肌で感じた。

私のやりたかったことは
「これだ!」
と心の底から感じた。

もっと映像の力で想いを形に表して
人に伝えることをしていきたい。

人の悩みを解決し、よりよい未来を創り出したい。
そう思った。

<6.フリーランス動画クリエイターとして独立〜現在>

そんな時、動画制作スタッフ募集の案内が目に入った。

募集期間はわずか1日。
二度とチャンスは訪れないような気がした。

勢いのまま応募した。
無事、面接に合格。

ついに、念願の動画クリエイターとなった。

と同時に、会社員からフリーランスで独立することになった。
今の会社に退職意向を伝える手が震えた。

今、私は、目まぐるしい日々を送っている。
だが、以前より遥かに自分らしく
楽に生きることができるようになった。

これからさらにクリエイティブと向き合い
探究し、苦悩することにもなるだろう。

しかし、長い長い夜は明けた。
自分の突き進むべき道が見えた。

水平線の向こうから陽が昇る太陽のように、
ゆっくりと、着実に、
明るい未来になっていることを
確信している私が今、ここにいる。



最後までお読みいただきありがとうございます。

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