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「それでも、生きてゆく」~人間の心理描写の機微、そして彼らにとって朝日とは~

「それでも、生きてゆく」

2013年に坂元裕二さんが書いた作品。今となっては坂本脚本常連の満島ひかり、瑛太がダブル主演で加害者家族と被害者家族を演じる。それに加えて、少年A役に風間俊介、被害者の母親役に大竹しのぶなどと演技派の名が並ぶ。
実際の被害者家族や加害者家族がどのような心境で、事件後を生きているのか想像することすら難しい。その当事者にならないと、その苦しみというのはわからないものだと思う。ただ、この作品はそんな難しい心理を表現していた。これには坂元裕二特有の日常のちょっとした情景や心の動きを繊細な言葉で書き起こす力とそのセリフをリアルに落とし込んだ役者たちの力によるものだろう。まさに、役に魂が宿る瞬間を魅せられた。

特に2話で、事件が起きた直後のそれぞれの家族の時間を語る場面。

双葉「なんか、晩御飯の支度どうするのかなとかそんなことばっかし思ってたら、電話があって、お兄ちゃん自白したって。そしたらいろんな人がいっぱい来て、もうここには住めませんって言って。私は小田原のおばあちゃん家に預けられることになって。時間あんましなかったから、何持っていっていいかわからなくて、全然遊んでない人形とかなんでか持って。私は今考えたら、しなくてもいいような宿題とかずっとやりながら待ってて、、、」
深見「僕には今あの家の中で何が起こっているかわかります。時間がゆっくり流れててすごく静かで、家がピシって鳴る音あるじゃないですか。立て付けの。あの音だけでいちいち家族全員がびくってなるんですよね」

家族が本当に犯人なのか状況を呑み込めていない時間、家族の命は助かるのかただ待つことしかできない時間。どちらも経験したことはないけれど、「確かに、そういう感じなんだろうな」と納得してしまうような説得力がある。このクオリティが最終話まで続くのだからすさまじい。

1人間の多面性

この作品では、様々な箇所で人間の二面性を描いていた。そして、一貫性のない心の揺れ動きを丁寧に描き出す。
双葉(満島ひかり)は物語の序盤から「お兄ちゃんは冤罪かもしれないじゃないですか」「兄は私には優しかった」と兄が自身の理想の兄であることを望みつつ、「お兄ちゃん、一度私を殺そうとしたことがあった」「どこかで、また事件を起こしているかもしれない」とボソッと兄のことを信用していないセリフをもらすことがあった。彼女の中で、兄が人を殺したということは事実だとわかっているけれど、家族として優しい兄が虚像であったことを認めたくないという気持ちがあるのだろう。ただ、兄が殺人犯であることが原因で社会的に生きづらくなったが、それでも双葉は「兄のせいで」などと憎む気持ちは一切ない。

「妹とかにも言われるんですよ。おねえちゃん自分で人生選んでないねって。でも、私全然そんなことないんです。私選んだんです。自分で選んだ結果がこういう感じなんです。後悔なんてしてません。こういう人間のこういう人生なんです。」

だから、双葉は兄をもう一度家族として受け入れようとしていたし、迎えに行こうと家族を必死に説得したのだ。しかし、その希望は文哉(風間俊介)が再び人の命を奪ったことにより、打ち砕かれていく。

「もう、取り返しがつかないんだよ。わかってんの?お兄ちゃんがやったことはお金とか物とかを奪ったことじゃないんだよ。命だよ?命奪ったら、もう償えないんだよ」

どれだけ、言葉を投げかけても、文哉には伝わらない。それでも、家族だから、そして、小さいころ自分に優しくしてくれた兄だから恨めない。恨みたくても恨めない葛藤が双葉の中にずっとある。
そして、被害者家族に対しても、文哉に対しても、「話し合えば、理解できる」という考えのもと動いていた双葉が「話し合い」を諦め、深見(瑛太)が持っていたナイフを盗み、「殺す」ことによって兄の事件に終止符を打とうとする。しかし、反対にずっと「殺す」ことで文哉を止めようとしていた深見は「話し合い」で文哉と理解しあおうとする。そんな2人はともに文哉のいる場所へ向かっていく。

そして、文哉のプールでの自殺未遂。
プールに浮かぶ兄を見つける直前まで、彼が自殺するかもしれないと聞いた双葉は「このまま放っておけば、みんな楽になれる」と話す。しかし、実際にプールに沈み死にかけている兄の姿を見たときの双葉は、兄が死ぬのは嫌だと言うかのように子供のように泣き叫んでいた。それまでの双葉が外に発してきた言葉と行動の辻褄があっていない。兄を殺すという覚悟でいたし、兄は死んでしまった方がみんな楽になれると思っているものの、生きててほしいのだ。この一貫しない矛盾した感情を持っているのが”人間”というものなのではないだろうか。それを脚本と満島ひかりの演技が見事に表現している。

また、同様に文哉にもそのような描写が見られた。文哉が少年院出所後、初めて自宅に帰ったシーンでは、自分をよそ者のように扱う母親に対して、家族なのにどうしてそのような扱い方をするの?という態度をとる。自分ことを家族として受け入れてくれないことに寂しさを感じているのかと思いきや、双葉には「本当はお兄ちゃんのこと憎くてしょうがなかったんでしょ?」と傷つけるような言葉を放つ。
そして、文哉の自殺を防ぎ、3人が定食屋で言葉を交わすシーンでは、文哉と深見が机を挟んで対面で座り、その後双葉が深見の隣に座る。文哉の隣の席と深見の隣の席が空いている状態で、双葉は深見の隣を選んだ。文哉は双葉が自分の隣に座ると思って、椅子を引いていたにもかかわらず。ここで一瞬無表情だけど、どこか寂しそうな表情が映る。
彼の行動には終始一貫性がない。それは、おそらく、文哉は生まれながらに狂気的な側面を持つサイコパスとして描かれているからだろう。ただ、このドラマで彼は、居場所が欲しくて仕方がないのに、自分からその居場所を突き放すという最も理解できない矛盾した行動をとっていた。

2、朝日

第2話、双葉から兄に向けて書いた届かなかった手紙には、

追伸
そこに窓はありますか?
困った時は、朝日を見るといいですよ。
双葉はいつもそうしています。
朝日を見ると生きる希望が湧いてくるのです。

このような内容が書いてあった。
また、第10話、深見が文哉に語り掛ける場面では、

「今朝、朝日を見たんだ。便所臭いトイレの窓から朝日が見えて、そんな事、あそこに住んで一度も感じたことなかったんだけど、また今日が始まるんだなって。悲しくても、つらくても、幸せでも、虚しくても、生きることに価値があっても、なくても。今日が始まるんだなって。うまく言えないけどさ、文哉さ、俺、お前と一緒に朝日を見たい。一緒に見に行きたい。もうそれだけでいい」

また最後の双葉と深見の手紙の場面では、

深見さん。こうして朝日を見てると、深見さんも同じ朝日を見ている気がします。いつもあなたを思っています。私が、誰かとつないだその手の先で、誰かがあなたの手をつなぎますように。



双葉と深見にとって朝日とは「どんなことがあっても、朝日が昇れば一日が始まる。一日の始まりを示す朝日は自分たちに希望をそして繋がりを与えてくれる。それはどんなに辛いことがあっても、それでも、生きてゆくのだと決意への糧になる」ものである。だから、双葉も深見も、文哉に「朝日を見よう」という言葉をかけたのだ。
しかし、文哉は深見の言葉に対し、「ごはん、まだかな。」という一言を発する。この、まったく言葉が響いていない文哉の表情、ただただ、ショックで笑うことしかできない深見、言葉を拒絶され、許せなくて涙を流す双葉の3人の場面はあまりにも救いようのないシーンであった。


この作品では、被害者家族、加害者家族としてラベリングされ、周りからはただの「人」としてなかなか見てもらえず、また、自身も「被害者家族だから、我慢しないと」や「加害者家族だから、相手を許せない」という考えに支配され、何でもないただの「人」としての感情とその考えが自身の中でぶつかり合っている心理的な心の揺らぎが繊細に描かれていた。その繊細さは役者の演技に支えられていたと思う。

そんな主役2人の演技が最も光っていた場面はなんと言っても、最後の別れのシーンだと思う。
双葉の決断に納得できず、意地でも手を振ろうとしなかったが、彼女のために自分の気持ちを押し殺して最後は笑顔で手を振った深見。深見と離れるのは寂しいけど、自分の決めた道に進むため、笑顔で手を振ったあと、振り返らないように全力で走る双葉。台詞だけでは伝わらない彼らの心理を見事に演技で表現していた。

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