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【戦国と幕末の名言】坂本龍馬の章/ただのおじさんが偉そうに語ってスミマセン。

はじめに・・・


「後ろなど振り向かずに前へ進め。」

「過去ばかり振り返っていては未来はない。」

そんな言葉をよく耳にする。まるで “ 過去 ” というものが、悪いものであるかのような言い回しである。

過去とは歴史である。それは一人の人間のものであろうとも、ひとつの国のことであろうとも変わりはなく、過ぎ去った時は歴史となり、その歴史を重ねることによって今ある姿、形、思考になったのだといえる。

今の自分を好きであろうと、好きになることができなかろうとも、それは今まで生きてきた過程によって成り立ったものである。

同様に国や人間社会といったものも、歴史が作り上げてきたものといってよい。

時には同じ歴史を繰り返すことも、それ以前に立ち返ることもあるかもしれない。ただそれも次のステップへと続く歴史となるのである。

しかし、歴史というものを忘れ、いや記憶に留めようとさえしないものもいる。

人や国、物の過去を学ばず、その意を考えようともしないものたちがよく口にするのが先に挙げた言葉である。

未来に目を向けることは良い。しかし過去を考えない者は、壁にぶつかったときに新たな道を見つけることができず、同じ道を歩き回り、時には来た道を引き返したり、新たな道を歩いたつもりでも出発地点よりも後ろにたどり着いてしまう。そして結局はその場で動くことができなくなってしまうことが多々見られるのである。

このように偉そうに述べている私も別に歴史学者というわけではない。またそれほど人に自慢できる知識を持っているわけでもない。

ただ最近、周りの人々があまりにも歴史に無知であり、それをただの過去であると考えて、テレビや映画の格好の良いセリフのごとく、先のような言葉を口にしていることを悲しく思う一人なだけである。

信じられぬことに、関が原で戦ったのは武田信玄と上杉謙信であり、江戸を開府させたのは織田信長、信長は徳川家康によって殺されたなどと口にする者がいる。坂本龍馬は戦国武将であり、西郷隆盛は新撰組隊長、吉田松陰や高杉晋作が作家にされることもある。

こうなると悲しいというよりもあいた口がふさがらないといってよい。

過去というものは私たちに知識を与えてくれる。

人が学ぶのは何も教室の中とは限らない。過去は人にとって、いやこの世に生まれた生物にとって最も大切なものを教えてくれるのだ。それに比べれば教室の中で覚えさせられる年号や人物名などは取るに足らないものである。

現在、日本という世界の中でも恵まれた発展を成した国に生きる私たち。

戦後、長い平和が続き、戦いということを経験していない世代が多くなったこの国に生きるからこそに忘れてしまった精神を教えてくれるのが歴史なのである。

私はこの記事で歴史の年号や○○代将軍はだれ?などといった教科書のような解説をするつもりは毛頭ない。

先にも述べたとおり、歴史学者でも大学教授でもない私に、そんな大それた資格はない。

ただ “ 過去は振り返らない ” などと言っている人々に、少しでも興味を持って欲しいがために筆をとったのである。

それには何を書けばよいのか。考えたあげく、これまで書き留めておいた、過去に生きた人々の言葉を利用させていただくことを思いついた。

様々な小説、文献、歴史書などに書かれていた歴史上の人物の言葉の中で心に響いたものを書き留めておいた。

これらの言葉は、彼らの生きた時代とその背景を感じさせるとともに、彼らの生き方をも感じさせる。そしてそれが今生きる私たちに足りないものを教えてくれるのである。

今一度言う、私は歴史学者でも大学教授でもない。ただの一社会人に過ぎない。だからその言葉に対する解釈は私個人の思いであるに他ならない。

“ その言葉の意味はそうではない ”

“ 自分はこう解釈する ”

と思われる人もいるであろう。しかしそれで良いのである。

私は決して、ここで述べる自分の解釈を人に押し付けようとしているわけではない。私自身が、数年前に書きとめておいた自分の解釈に対して「それは違う!」と意義を唱えることも少なくないのだから、それは当然あって然るべしである。

私自身、その数年間の “ 過去 ” の間に、新たな知識を得、様々な経験をしたことによってその言葉に対する感じ方が変わったのである。これからもそれは変わっていくであろう。それが成長というものであるのだと思う。

もうひとつ読者の方々に断わっておくが、先にも述べたとおり、ここで紹介する “ 言葉 ” は今までに接した歴史書や小説などから取り上げている。

ここに記載する前に、その言葉が実際にその人物によって語られたものであるかどうかを確かめる努力はしたが、とうとう最後まで確認することができなかったものもあることをご了解いただきたい。

そもそもこれらの言葉は口で語られたものが多く、それを他の者が記録に残したものがほとんどである。例えそれが文献などに残っていたとしても、それが確かなものであるとは誰にも断言できないであろう。

問題はその言葉が、実際に本人が語ったものであるかということよりも、それによって歴史の背景を感じ、その時代と人物に興味を持ってもらいたいということなのである。

また、その言葉を述べた人物の紹介も入れてはいるが、彼らを語るには数千文字の内容ではあまりにも不十分である。ここでは簡単にその人物の概略を記載したにすぎない。

もしも読者の方々が、彼らの言葉によってその人物の生きた時代、またはその人物自身に興味を持たれたならば、それが書かれた小説や描かれた映画などに触れてみていただきたい。

そしてその奥深くに皆さんが入っていかれるかどうかは、その小説の作者や映画の監督、俳優にお任せしたいと思う。

それでは過去の人々の名言をご堪能下さい。


坂本龍馬の章


-名言1-

「世に生きものというものは、人間も犬も虫もみなおなじ衆生で、上下などない。本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将軍といい、大名といい、家老というも、みなその時代、その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすなかれ。俸禄などというのは鳥に与える餌のようなものだ。天道は人を作った。しかも食いものも作ってくれた。鳥のように鳥籠にかわれて俸禄という名の餌を与えられるだけが人間ではない。米のめしなどは、どこへ行ってもついてまわる。されば俸禄などわが心に叶わねば破れたる草鞋を捨つるがごとくせよ。」

-名言2-

「日本を洗濯致したく」

-名言3-

「志士は溝壑ニ在ルヲ忘レズ、勇士ハソノ元ヲ喪フヲワスレズ」

-名言4-

「牛裂きに逢ふて死するも磔に会ふも、又は席上にて楽しく死するもその死するにおいては異なることなし。されば英大なることを思ふべし。」


遠く戦国時代、織田信長によってそれまでの長い戦いの世に変化が生まれ、羽柴秀吉によってそれは引き継がれ、徳川家康によって終わりを迎えた。

こう言うとあたかも三人のみの力によって戦国時代を終わらせたかのような感があるが、この時代はそれほど甘い世ではなかった。

信長が本能寺の変と呼ばれる明智光秀の反乱によってこの世から消えると、すぐに後継者争いが始まる。そこには名目上名は挙げられたものの、実質的には信長の息子たちは入っていなかったのである。

前代信秀のときから仕える筆頭家老の柴田勝家、尾張百姓から織田家を代表する身分にまでのし上がった羽柴秀吉。この二人のどちらかが実質上の後継者となることは暗黙の了解であり、その他の織田家の家臣たちは二人の動向を見定め、どちらに付けば身の安全を確保できるかを考えたのである。

結果、勝家は秀吉との戦に負け、信長の三男である信孝は勝家側であったために殺され、次男信雄はその後、徳川家康と同盟を結ぶなどの反抗を見せたもののその実力はなく、嫡男信忠の息子、すなわち信長の嫡孫である三法師(秀信)は幼かったために、信長の遺産は秀吉が受け継ぎ、天下を統一することとなる。

その秀吉も死ぬときがくる。六十三歳(満六十二歳)、伏見城にて死去。この時も当然のごとく後継者争いが始まる。

秀吉には秀頼という後継者がいたが、まだ幼く、戦の世を知らない。ところが周りの武将たちは戦国の厳しい戦いを生き残った猛者たちばかりであると言ってよい。彼らを秀頼が治めていくことなどは不可能であった。

秀吉政権内において五大老と呼ばれた中には徳川家康、五奉行と呼ばれる中には石田三成がおり、この二人の間で世に言う関が原の戦いは行われたのである。

家康は秀吉亡き後、天下を我がものにしようと考え、三成は真の後継者であると考えた秀頼を守るために立ち上がった。

この時も信長が死んだ後と同様に、その他の武将たちはどちら側に付けば生き残れるかのみを考え行動をとったのである。

ただ信長のときと異なったのは、信長の後はただ単に織田家の問題であったものが、このときには舞台は天下というものに変わっていたことである。当然、それは日本すべてを巻き込んだ天下分け目の戦となったのである。

全国の武将たちにとってどちら側に味方するかということは重要な問題であった。そしてその判断が後々の幕末まで影響を与えるのである。

幕末、江戸開府から二百数十年の徳川時代といえる江戸の世を終わらせ、明治維新と呼ばれる新しい日本を作り上げるための原動力となったのは主に薩長土と言われる。

薩は薩摩藩、長は長州藩、土は土佐藩である。

しかし、この三藩の中で土佐藩のみがその存在が他の二藩とは違っていた。

薩摩藩は島津家であり、長州藩は毛利家である。二百数十年前の関が原の戦いでは石田三成方に味方し、敗者の立場となったのである。

しかし、島津も毛利も元来、戦国の世において自分の力で領土を広め、そして守ってきた。彼らは秀吉、家康などから領土を分け与えられたわけではなく、毛利家にいたっては関が原の戦いで輝元が名目上の大将として大坂城に入っていたことから、戦後に大きく領土は削られ、防長ニ州とされたが、それも元々は自らの力によって守ってきた土地であった。

さて土佐藩はというと事情が異なる。山内家は信長、秀吉に仕えた山内一豊が祖となっており、彼は関が原では家康側に付いた。その功によって戦後にこの土佐二十四万石を与えられ、それまでの領主であった長曾家部は三成方に味方したために潰されたのである。そして山内家は幕末まで土佐藩主として君臨した。

土佐藩では同じ家臣でありながら上士と郷士という身分に分けられる。上士は山内家が関が原後に移ってきたころの家臣の子孫であり、郷士は元々この土地に暮らしていた長曾家部の家臣たちの子孫であった。

坂本龍馬は郷士である。

系図では明智光秀の甥である明智光春の子孫であることになってはいるが、この時代の誰もがそうであるように、これらの系図には信憑性がない。江戸時代には自分たちの出身の卑しさを隠すために系図を作ることが流行った。系図作りの仕事人までいたという。

話を戻そう。坂本龍馬は郷士であった。土佐藩の上士と郷士の差別は他藩では考えられないほどに厳しいものであり、郷士は人間扱いをされていない。このような理由から山内家は徳川家に恩はあっても、その家臣の中の郷士たちは徳川家に恨みこそあれ、恩を感じる理由はひとつもなかったのだと言ってよい。

薩摩、長州からは多くの上士たちが維新のために活動したのにも関わらず、土佐出身で働いた者たちの多くが郷士であった理由がこれで分かるであろう。

坂本龍馬がそういった環境の中で生まれ、育った者だからこそ、発せられた言葉が先に挙げたものである。

現代に身をおく私にとって、彼の言葉で一番はじめに心に響いたのは「世に生きものというものは・・・」という、姉、乙女に書かれた手紙の中にあった一文である。

この世に生きるすべての生物には身分の差などはない。将軍、大名、家老などといった役柄はこの世での仮の名目に過ぎず、皮を剥がせばひとつの生き物であることには変わりはないのだと言っている。

この言葉、土佐藩郷士出身という身分だからこそ言えた言葉であったかもしれない。先に述べたとおり、土佐の郷士は遠く戦国の世、関が原の戦いにおいて石田方について滅ぼされた長曾我部家の子孫たちであり、土佐藩主山内家は徳川方についた功によってこの地を与えられたのである。

その後、上士たちから差別され続けた彼らからしてみれば、山内家はこの土佐を乗っ取った他国者たちであり、その山内家は将軍家に恩はあっても、彼らにとっては怨みこそあれ恩など感じる理由はひとつもないと言ってよかった。

彼は言葉を続ける。

俸禄などは鳥の餌と同じだ。食べものなどはどこへ行ってもついてまわるものであるから、心に叶わぬものならば捨ててしまえと。

これは今生きる私たちにとっても感じるものがあるだろう。

私たちの世も使う者と使われる者とに分けられ、多くの人々が後者であり、使う側から俸禄(給与)を貰って生活している。

果たして私たちは彼のような言葉を堂々と胸を張って言うことができるだろうか。

坂本龍馬という男が口先だけではない証拠に、彼は実際二度もの脱藩をしている。

当時、脱藩とは主君を捨て、家臣としての責任と義務を放棄するという意味があり、大罪であった。

時には追っ手が差し向けられ、命に従わない場合は殺される危険性もあったのである。また当然、江戸や大坂、京にある藩邸も利用することが出来なくなるため、実家からの送金なども受け取ることは出来ない。まったくの無収入となるのである。

これだけ見ても、今の私たちが勤めている会社などを辞めることとは次元の違うことが分かるだろう。

この時代の中で考えても、彼が二度もの脱藩をしたことは驚くべきことなのである。

例えば、同じく維新への原動力となった長州藩の吉田松陰、高杉晋作なども脱藩の経験はある。高杉晋作などは三度の脱藩をしているが、後日、大きな咎めもなく戻っている。

彼らが龍馬と異なるのは、長州藩内において松陰は指南役という役職を持ち、晋作は上士であったことである。いや、たとえ郷士であったとしても土佐藩のそれとは違い、それほどの厳しい扱いは受けなかったに違いない。

そうまでして龍馬は何故脱藩したのか。ひとつはその言葉とおり、大名、家老、主君などといった者たちに対し、「自分と何が違うのだ」といった気持ちがあったのだろう。彼にしてみれば、土佐一国などは日本の一部であるに過ぎず、その小さな地を治める者たちなどは眼中になかったのだと言ってよい。

後年、龍馬は新政府の構成案である「新官制議定書」を作成。

それを西郷隆盛が見たとき、そこに書かれた新政権トップの職務と候補者の欄に彼自身の名前が載っていなかった。

それを不審に思った西郷は

「当然、土佐から出るはずの貴殿の名がないのはどうしたことか。」

と尋ねた。

幕府を倒すため、それまで犬猿の仲であった薩摩と長州の同盟を成し遂げ、大政奉還という秘策を提唱した彼の名が新政府の高官名簿にないのはおかしいと言ったのである。

それを聞いた龍馬は

「自分は役人などになるつもりはない。」

と言い、

「それでは何をなされるつもりか。」

と問う西郷に対し、

「世界の海援隊でもやりますかな。」

と言ったということは有名である。

また、「世に生きものというものは・・・」の手紙の中で

「日本を洗濯致したく・・」というものがある。

これらから分かるとおり、彼の目は日本一国というものに向いており、長い鎖国体制の中に生まれ、日本を出た経験もないにも関わらず、その先に世界というものを目標においていたことが分かる。

冒頭、私は “ 現代に身を置く私にとって ” という言葉を用いた。しかし私たちは彼の言葉を安易に理解、そして用いるのは危険である。

彼は単に俸禄を出す側に嫌気がさして脱藩をしたわけではなく、己の目標のためにその体制が邪魔になったからそれを行動に移したのである。これは似ているようで大きく異なる。

私たちが単に会社が自分に合わない、上司が気に入らないなどといった理由で辞める、そんな時にこの言葉を利用してはならない。

龍馬は日本を洗濯するという大きすぎるほどの目標があり、そのために自らを自由にしたのである。自由というものは責任が伴い、この時代にはそれに尚、先に述べたとおり生死という問題が追いかけてくるのである。

それを覚悟できるほどの志を持った者だけが口にできる言葉であると言ってよい。

その覚悟を語っているのが「志士は溝壑ニ・・」と「牛裂きに逢ふて死するも・・」の二つの言葉である。

「志士は溝壑ニ在ルヲ忘レズ、勇士ハソノ元ヲ喪フヲワスレズ」

志を持って天下に働きかけようとするほどの者は自分の死骸が溝っぷちに捨てられている情景をつねに覚悟せよ、勇気ある者は自分の首が無くなっている情景をつねに忘れるな。

この意味を持つ言葉は龍馬自身が教訓としているものであり、彼についてくる若者たちへも語っていた。

これは西郷隆盛の章で紹介する予定の言葉にも通ずるものがある。

「命も要らず、官位も金も要らぬ人は、始末にこまるものなり。この始末にこまる人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬものなり。」

これが坂本龍馬個人を指して言われたものというわけではないが、命を惜しむ者はもちろん、その行動に対して官位や報酬を欲する者では国家の大業を請け負うことはできないと言っている。

それは死後に対しても同じことが言えたのである。死後、己の行動を称えてほしい、誰かにその努力を認めてほしい、そんな心など持たずに死すべき時がきたら死に、自分の死骸が溝っぷちに捨てられ、誰にも気づかれずに朽ち果ててもよいという覚悟を日頃から持てと自らを戒めていたのだ。

この言葉どおり、坂本龍馬は維新直前に命を落とす。

いや、彼のみならず多くの志士たちが新政府ができる前に死を迎えている。

吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、武智半平太など多くのこの大業の原動力となった人々が死んでいる。その年を並べてみれば坂本龍馬三十三歳、吉田松陰三十歳、久坂玄瑞二十五歳、高杉晋作二十九歳(全て数え年)。

いくら平均寿命の短いこの時代とはいえ、あまりにも短い人生ではないだろうか。彼らを思う時、私は自らの年齢を省みて恥ずかしく思う気持ちを禁じることができない。

しかしまだ彼らはその死後、この時代になってもその名が残り、多くの人々からその功績を称えられているが、彼らの何十倍、名百倍といった者たちが、本当に名もなく溝っぷちに死骸を捨てられたことを私たちは忘れてはならないだろう。

彼らと比べれば、維新後まで生き延び、栄達していった者たちは何をしたのだ?という気持ちにもなってくるが、それは厳しすぎる言葉であるかもしれない。

ただペリー来航のときから国事に奔走し、命をかけて行動を起した者の内で維新後まで生き延びた者は少ない。薩摩では西郷隆盛、大久保利通(一蔵)、長州では木戸孝允(桂小五郎)が代表的であろうか。

その他の者たちは、彼ら先駆者が立ち上げたものに途中から乗っかり、維新後まで生きて金や官位を得るようになっていった。

先駆け的存在であるにも関わらず生き延びてしまった三名は、それぞれの苦しみをもって生きる。

西郷は出来上がった新政府との意見の違いから官位を捨てて薩摩に戻り、維新の十年後に反政府の若者たちに担ぎ出されて西南戦争を起こすに至り、死を迎える。

大久保はその新政府にいながら廃藩置県などの新たな政策を打ち出し、それを行動に移し、幕末の多くの犠牲を無駄にせぬよう努めるが、後に東京紀尾井坂にて暗殺される。

唯一、寿命(病死であるが)を全うしたのは木戸のみであったが、彼も出来上がった新政府に対し不満を持ち続け、このような政府を作るために我々は奔走したのではない、という意味の言葉をいつも口にし、新政府内にて栄達をしていく者たちへ批判の目を持ち続けていた。

作家司馬遼太郎氏はその著書の中でこう語られている。

「革命の初動期には詩人的な預言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとり、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちである。」

初動期の詩人的な預言者は吉田松陰、中期の卓抜な行動家とは坂本龍馬、高杉晋作などにあたるであろう。伊藤博文などは最後の処理家ということになる。

私は最後まで生き延びた処理家といわれる面々を批判しているのではない。私ごとき者から見れば彼らも尊敬に値するほどの行動を起こしてきたことに変わりはないのである。

ただ彼らの栄達の裏には、新政府樹立以前に、雄大な志のため、勇気を持って行動し、死を覚悟し、そして実際に死んでいった者たちがいたのである。その彼らの気持ちを表す代表的な言葉として坂本龍馬という土佐藩の一郷士から出て、日本を変えていった者の言葉を掲げてみたのである。


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