「家族」を超えた家族の幸せ?

はじめに

「ベイビー・ブローカー」(是枝裕和監督、2022年)を観ました。
じんわりと感動が沸き上がって広がって、そして涙があふれる、そんな作品でした。
いろいろと書きたいことは多いのですが、
ここでは、同監督の「万引き家族」(前作、と呼びます)との相違点に焦点をあてつつ、
なぜここまで私が「ベイビー・ブローカー」(今作、と呼びます)に心動かされたかを書き留めておきたいと思います。

両作品の相違点ー「家族」のみが家族の答えか?ー

両作品ともに、家族、より正確に言えば、人と人が家族という形式で繋がるときの内実や奥行き、苦悩と喜びを主題としていると思います。
ただ、大きな違い、あるいは私の視点から今作が大きく優れている点を挙げるなら、
やや逆説的な物言いになってしまいますが、
「家族」に固執しない子の幸せがあるのではないか、さらにはそこを基点として人は救われるし幸せを追い求められるし、なにより暖かく光がある方へ歩んでいけるのではないか、という問いかけが今作の魅力ではないか、
と考える次第です。

「万引き家族」の苦しみ―「家族」ゆえの苦しさと脆さ―

「万引き家族」では、その名前が既に示す通り、物語が始まった時点で既に「家族」という枠組みが形成されていました。
この中で感情が揺れ動き、新しく一員となった幼い娘を契機として関係性がうつろい、果てには犯罪への公権力の介入によって徹底的に解体されるまでを描いていたと理解しています。
もちろん、松岡茉優さんが演じる年長の「娘」が、「両親」ではなく「祖母」により強い結びつきを覚えるなど、家族という形式の中でもかすかな緊張関係はありました。
しかし、全体を総括するならば、家族の中での父、母、息子、娘、祖母、という地位あるいは役割があり、それを軸として物語は進み、それゆえに苦悩が現れていたのではないかと思うわけです。
児童虐待の被害者である子、幼い「娘」を迎え入れて救いを与えるのは、そのような虐待を行わない家族でなければならなかった。この行為に対する安藤サクラさん演じる「母」の葛藤と、心情の変化、最後の独白は印象的です。そして彼女には、(他の役と比較すれば哀しいほどに)無個性な、公権力を体現するような婦警からの、「母」になれなかったが故の代償行為だったのではないか、との弾劾が及んだわけです。

「ベイビー・ブローカー」が示す流動性と不明確性

他方、今作の「ベイビー・ブローカー」は、乳児という「子」の中でも最もまっさらな、まだ立場が決定されておらず極めて不安定な地位に置かれている主体を出発点として、物語が始まります。
乳児の人身売買という、この上なく深刻で擁護しようのない犯罪(被虐待児の救済とも評価し得る前作の誘拐と対照的です)を軸に、劇が進行します。
様々な大人(ブローカーの年配の男性やお兄さん、若い母、2人組の警官)がどのような背景を持つか、初めに描かれることはありません。彼ら彼女ら(ブローカー陣営のみならず、刑事裁判での証拠能力の問題に目を瞑っておとり捜査をも行おうとするチーム長も含みます)がどのような思惑や背景をもってこの犯罪行為に絡んでいるのか、
すなわち、彼ら彼女らが乳児という子に対してどのようなスタンスで携わろうとしてるのかは、徐々に語られ明らかにされるし、変化していきます。
そしてこれ故に、今作は固定された息苦しさ、「家族」という形式に合わせて無理を通そうとして、その末に事態と人の感情が軋んでいくような悲劇性から自由なのではないでしょうか(なお、ロードムービーという今作の手法もまた、このテイストを生んでいる要素ではないかと思います。一軒家が舞台であり、そこが徹底的に破壊されてしまう前作と対照的です)。
旅の過程、思わぬハプニング(警察による一時停車の要請、洗車場での窓開け、赤ん坊の発熱)を通じて、徐々に各々の人となりや背景、より踏み込んで言えば「家族」についてそれぞれが抱える問題が明らかになっていきます。
それは、家出の末に「お母さん」を名乗り売春をさせる女性のもと望まぬ妊娠をしたことや、なぜ母は自分を迎えに来なかったのかと今でも悩んでいること、経済的苦境か犯罪か酒癖の悪さか原因は分かりませんが妻に縁を切られ娘にも敬遠されていること、子供ながらにこのまま児童養護施設にいて将来があるのかと重い現実に直面しつつあること、進歩的で優しい夫がいるがおそらく子に恵まれなかったことなど、本当に様々です。
そして、それぞれの年齢や、抱えている背景からしても、簡単に家族として結合してしまうことはあり得ない。ここが今作の最も優れている点だと思います。
乳児の父が誰か、ブローカーのどちらなのか(病院でのユーモラスなシーン)は明確ではないのです。母は出生の事実により簡単に決まるようでいて、しかし、彼女自身が、殺人の後という状況だったとはいえ息子が死ぬ可能性を認識しつつベイビー・ボックスの外に遺棄したという負い目を抱えています。愛ゆえに、授乳も声掛けもしていません。また、幼い少年は自ら養子にしてくれと頼みましたが、明示的に拒否されてしまいました。
しかし、結末はどうだったでしょうか。物語が進み、それぞれが相互理解を深めた結果、私たちが目撃したのは愛の核心、最も純粋で美しい祝福の言葉でした。生まれてきてくれてありがとう、というメッセージに、家族の形式に当てはまらない状況の人々が、一軒家ではないどこかのホテルの一室で、同時に接したのです。
そしてラスト、「三年後」、希望は繋がって、むしろチーム長が包含されたことでより強いものとなっていたのでした。

「子」の福祉?ー家族という一義的明確性と安定性に対する問いかけー

今作は、以上のように家族を主題にしつつ、しかし家族の形式に固執しないことで、
私たちが子の福祉について抱く一つの固定観念を問い直させるのではないでしょうか。
すなわち私たちは、子が幼ければ幼いほど、親との一義的な関係を構築させるべきだ、と考えがちです(養父母になろうとした愛情と金銭をともに有する夫婦が、「実子」として育てたい、と申し出たのが象徴的です)。
ただ、今作は、家族の形式に当てはまらなくとも、全員が(前作の婦警と対照的に、人物像が、全て語られずとも魅力的に描かれた、今作のチーム長を含む全員)乳児という最も弱く守られるべき存在を第一に考えることで、その子を守ることはできるし、ひいては全員の環境や背景にも救いが及ぶということを示しているのではないでしょうか。
この豊かで暖かな相互作用、正のフィードバックの連鎖とでもいうべき展開に、前作と違う感動を覚えた次第です。

残された問題、しかし希望

もちろん、それで物事がすべて報われるか、問題は何も無くハッピーエンドかというと、そう楽観的にはなれません。
乳児だった子が成長して物事を認識し始めたとき、「母」のような存在が3人いることをどう思うのか、サッカー好きの少年は「兄」か、頼りがいのある青年は「兄」なのか「父」なのか、物書きをしている知的で優しい男性こそ「父」ではないか、おじさんは「父」なのか「祖父」なのか、生みの母に傷害致死の罪まで負わせた暴力団員だった男が本当の「父」なのか、という悩ましさは生じることでしょう。
そして、少年期と成人の間、すなわち思春期には、終盤でチラリと映ったようにイジメなどの問題があり得るわけです(サッカー好きの少年もいつまで無邪気な存在でいられるか分かりません)。
とはいえ、その子を愛し、そしてその子を通じて救われた人々がこんなに多くいる、そして彼ら彼女らが互いの困難や背景や感情を乗り越えて、なお子を独占しようとせずその幸せを第一に考えようとしています。この状況を見て、子の将来の幸福を確信するのは、楽観的だと非難されるでしょうか。

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