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8 恐怖は思考力を奪う

 前回は恐怖が自分の大切な考えやしたい事を分断してしまうというお話でした。当たり前ですよね。恐怖をベースとしたものはきちんと体系化されているのに対して自分だけの興味はそうなっていません。よほど精神的に強い人でなければ負けてしまいます。

 さて、今回もまだ恐怖に関してです。今回は恐怖が人間の思考力を奪うという話です。ですが、皆さんは自分の思考力は全く奪われたりはしていないと認識しているはずです。そんな心配してくれなくとも良いよ、と。いいえ、実際には私たちの思考力はどんどん奪われていって、取り返しのつかないところまで行ってしまっていると考えるべきなのです。

 例えば、皆さんは一つや二つ、SNSにアカウントを持っているでしょう。その中で目にする発言は完全に思考力を発揮していないものが目立ちます。自分があのようになってはいないと果たして断言できるものでしょうか? 私は自信がありません。

 SNSで目立つのは、自分と意見の違う事を言う他人を批判するものです。いえ、間違えました。これはSNSだけではありません。もっと目立つのは政治です。会社等でもあります。

 これがどうして思考力を奪われた結果かと言いますと、前回申しました通り、私たちは意識する事なく恐怖にプッシュされて社会活動を営んでいます。意識する事なくという点がミソで、つまりは自分の方向性がどうであるのか考えていないで単に適応してしまっているという事です。そうした生き方を長年続けていますと、たまたま自分の目指している方向が正となり、それ以外は誤となってしまいます。先程例にあげた政治ではどうでしょう? 政治家は自分が当選する方向に常に向かって進みます。その為には名簿を集めますが、名簿集めにはお金が必要です。お金が必要な時にそのお金を出してくれる人や団体がいれば彼らの言う事を聞きます。その方向がどうしても正となっている事はニュースを見ていれば誰にもわかります。

 会社でもそうで、誰か偉い人に従った方が出世に有利という事でその方向ばかりを特に考えも無しに正としている人は多いものです。SNSもそんなもので、たまたま誰か目立つ人がこう言ったが正として捉えられます。それから外れた意見は誤です。さらに、そこから引き起こされる行動にまた、思考が欠如してしまいます。犬に石を投げたらワンワンと吠えますが、あれと同じで考えないで反応だけします。

 私たちは学校で習ってきた方法を踏襲して行動してしまいます。正解とされる回答はたった一つに限られますし、考えずに覚えた事を正確に回答用紙にコピーできるのが良い事です。数学でも理由はどうでもよくて公式を適用できるパターン化が良しとされます。つまり、考えない練習をさせられているのです。

 逆に言えば、私たちは思考の代わりに「反応」を要求され続けていると言えます。考えてはいけないのです。考える事は教えられた事、既存の知識に対して必ず批判しなければなりませんが、教育の場では批判は許されていないのです。

 私たちは学校に入ると何か知識を与えてもらう事を目的としてしまう傾向があります。その方式に慣らされていて、学ぶやり方としてそれ以外の方法が考えられなくなっているのです。これは私たち日本でのやり方ですが、他国では(国によって) その傾向は少なくなります。講師は学生と対等に議論します。議論するという事は相手は教授であろうと誰であろうと批判合戦をしなければなりません。ここで注意していただきたいのは、批判は人に対してのものではないという事です。批判は議論の対象となる事象についてであったり議論に持ち出された思考過程であったりします。人を批判してしまいますと負けた方は切腹しなければなりませんが、今は戦国時代ではないのでそれはいけません。

 残念ながら、私たちは大学という高いレベルの教育においてさえも思考するというところには至りません。大変にもったいない事です。大学を出ていてさえも議論の一つもできるようにならず、誰かを批判して勝ち負けを競い、犬のように反応をしているのです。

 これが私たちが恐怖に駆られて生きていかなければならない副作用の一つではないでしょうか?

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