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巡礼者達は草原にうたう。(短編小説)

「果てない旅こそ、我が罪の重さ……か」

目元の堀が深いのは父親譲りだった。グロサムはかさぶたのような音を立てる砂を瞼から払った。腰回りに指したベルゲンという馬族の皮を鞣し、幾枚の生地を縫い合わせて作った水筒もとうに空だった。体は痛いくらいに水を欲している。グロサムは毎晩水を飲めずに草花のように枯死する自分の姿を夢に見た。
夢には足首まで隠れる深紅のドレスに身を包んだ顔のない少女がよく出てきた。少女は抱えきれないほどの花束を欲張っていて、歩くたびに一輪、また一輪と砂に窪んだ足跡の横にこぼれていく。少女は踊るように砂漠を横断している。グロサム同様、砂漠の巡礼者の間では、長い事噂されている幻影のオアシスから現世に遊びに来た精霊のように見えた。残念ながら幻影のオアシスにたどり着いたものはいない。数百年前にコレグ・リニア―タという巡礼者が残した書にその存在が記されていただけだ。コレグ・リニア―タが書き残した『砂の巡り、信仰とともに』という自伝には幻影のオアシスにたどり着き、第7の太陽神ホロバに祝福を授かったとあるが、数百年経った現代の考古学者の評価は『取るに足らない優れた文学』という認識で一致している。コレグ・リニア―タが欲深い名誉心とともにでっち上げたフィクションというのが現在の通説だが、グロサムは幻影のオアシスを心のどこかで信じてもいた。それはグロサムの幼い頃、祖父が唯一読み聞かせてくれた本が『砂の巡り、信仰とともに』であったためであろう。彼の祖先は水上を生活領域とし、水を吸わないスラチナの木という裸子植物を特別な技術で加工し、船を造り、船上に家をたて、一つの島のようにして過ごして少ないながらも人々が住み生活拠点として稼働していた。主に漁を生業としている彼らは海の幸に恵まれ、収穫物で盛んに彼らの言うところの「魚返り」という名の貿易をすることによって海上でも生活必需品に困ることはなった。波は小さく大きく繰り返し、夜は壁に釣るされたランプが小さく大きく揺れた。祖父は灯が陰っても戻ってきても同じ速さでグロサムにコレグ・リニア―タの書を読み聞かせた。当時のグロサムは祖父の胸中を測ることはできなかったが、グロサム自信が砂漠の巡礼者になったことで、祖父もまた巡礼を夢見る星の元に生まれた祈る者だったとことがわかった。グロサムの祖父はいつか船という信仰を捨てて、巡礼者になりたかったのだ。祖父の影響もあり、幼い頃から船外の大陸に胸を躍らせたグロサムは、暇な時間さえあればコレグ・リニア―タを想像していた。だからこそ、グロサムの夢に出てくる赤いドレスの少女こそが、コレグ・リニア―タであって彼女は何らかのメッセージを孕み、グロサムの夢に出てきている気がしてならなかった。彼の喉は絶え間ない砂漠風によって焼き付き思い通りに声が出なかった。目の前に差し掛かるコレグ・リニア―タは涼し気で白く、半透明な存在だった。焦げ付かせるような砂漠の太陽を前にしても、彼女は水のように透き通っている。グロサムは懸命にかすれた息だけの声で、コレグ・リニア―タに助けを求める。砂漠の巡礼者のルールに背く行為だが、夢のなかではすべてに秩序も信仰心も使命感もない。ただ、あるのはこの惑星6号上にあるすべての水がグロサムの体を通ってくれればよい、という願望である。手元の砂を掻きながら、なんどもコレグ・リニア―タに手を伸ばす。ついに彼女がグロサムの前を通り過ぎる。グロサムの口は閉じることもできず、なかから砂がこぼれる。自分の巡礼の旅はここまでなのだ、と悟る。コレグ・リニア―タが進んでいく先を見る。グロサムの瞳孔は千切れてしまいそうなくらい見開かれた。陽炎に揺れたオアシスがあった。砂漠という無慈悲な一色に染まった乾燥地帯に青々と緑が茂り、砂漠化の干渉を受けない絶対領域がそこにはあった。気づけばグロサムの横を歴代の巡礼者が幻影のオアシスに向かって通り過ぎていく。そのなかには見知った顔がいくつもあった。砂漠の巡礼を行うために通った神学校のクラスメートや、かつて砂漠の爪や、砂漠の暁とも呼ばれた偉人たちも折れた杖や、片足のない体を引きずりながらオアシスへ向かう。グロサムもなんとか自身の体を起こし、前に進もうとうするが自分の体に積もった砂を掻かなくては動けない。そのうちに喉が詰まるような気がして、呼吸が上手く運べず、息を吸おうとすると口内にこべりついた砂が喉の方に流れてきて、よけいに呼吸が困難になる。今すぐに数滴でも水を飲まなければ死んでしまう、と考えながらグロサムの意識は遠ざかっていく。瞼が重くなり、視界が霞み、砂漠風の音だけが耳の横でいつまでも蜷局を巻いている。気づけば、コレグ・リニア―タが落とした植物が枯死していた。砂漠色に染まり、同化して、やがて朽ちて風に舞った。自分もそういう運命なのだと、悟り、グロサムは静かに瞼を閉じる。夢はいつもそこで終わった。
砂漠の巡礼者となって20年以上の月日が経つも、砂漠を越えるには3月かかる。その間キャラバンに遭遇すれば水や食料を銀と変えてもらい、キャラバンが見つからなければ、新鮮な動物の死骸の内臓から水を得る。それでもまだ、砂漠で水がなく死んでいく夢をみるのだから、自分は元来の小心者だとグロサムは思う。砂漠を越えた草原の丘には漆黒の大きな墓標がいくつも立っている。一つの大きさは3メートルといったところだ。そこには砂に散っていった巡礼者の名が彫ってある。毎年、宵の月に差し掛かると砂漠の巡礼者たちは広大な砂の地へ足を踏み入れる。砂越えといって、砂漠を越えるのにかかる期間は短いもので3カ月、長い者で5年はかかると言われている。漆黒の墓標は毎年立てられており、巡礼開始から5年経過しても帰ってこなかったものは、死者の道を辿ったとして、墓標に名が彫られるのだ。グロサムは風のような気持ちで墓標を眺めた。20年前よりも老いた手で庇を作り、遥か遠くの眺望へ投げるような眼差しで、かつての友の名が彫られている墓標を見た。死ぬ者は決まって、砂漠の夜に呑まれる。生き物の音がなく、ただ微かな風の音だけが己の心の便りであり、圧倒的な闇と孤独に襲われる。それでもグロサムをはじめ砂漠の巡礼者は、今日も砂のなかを歩く。祈りながら、探しながら、再び草原に帰る日を夢に見て、悟りを開くがために。それが彼らの罪でもあるのだから。
グロサムは穴の空いた皮の手袋を外して捨てた。墓標を背に腰かけ、コレグ・リニア―タを思った。彼女の記録はその書物以外何も残っていない。彼が座っている墓標の後ろに聳える数百はあるであろう数々の墓標には、コレグ・リニア―タの名がどこかに彫られているのであろうか。グロサムは自分の横に降ろしたリュックからカワズイと呼ばれる生き物の角で作った、笛を取り出して吹く。水気を失った唇がやけに痛かった。
グロサムが吹いている曲は神学校で習ったものだ。吹きながら彼はある予感に襲われた。次の宵の月に巡礼へ出たら、自分はもう砂漠を越えることはできないだろうという運命のような予感だ。砂漠の巡礼者の生は短い。皆がいつかは砂に埋もれる。埋もれるまで、それぞれが巡礼を行う。墓標の周りには背の低い草木が茂っており、風に揺れた。大気は生き物の命で澄んでいた。グロサムの遥か遠方まで広がっている墓標に彫られた名前が、彼の吹く曲を懐かしがって歌っているような気がした。ここは砂漠ではなく、草原なのに、彼らは歌っているような気が、グロサムにはした。

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