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4つの小学校に転校して、フルカラーな人間になった話

多様性、ダイバーシティ、LGBTQ+などなど…
いまの社会ではいろんな言葉をつかって「みんなちがって、みんないい」を前面に押し出している気がする。

そんなの当たり前だろ、と思う人もたくさんいるでしょうが、わたしが経験してきたことを見ると、やっぱりみんながそういうふうに考えるのって難しい。


あらためまして、深呼吸です。
ある会社の説明会を聞いて、自分がどんな人間かわかってもらうことの重要性をめちゃくちゃ感じたので(おそくない?)こんなnoteも書いてみようかと手を動かしています。


「お父さんの仕事の関係で、転勤ばっかりだったんです。」

わたしは何度もこのセリフを口にした。
時にはポジティブな意味で、時にはネガティブな意味で。

みんな、「それは大変だったね~」とか「じゃあ地元はないし幼馴染はいないのか!」とか「やっぱり実家がないのって変な感じするの?」とか、それはかわいそうみたいに感じてくれます。

わたし自身、「なんでわたしばっかり転校しなくちゃいけないんだよ」「また新しい友達つくるのおっくうだし次の家は狭くて田舎でいやだなあ」って思っていたこともありました。

やっぱり、自分がもし親になるとしたら転勤なしで東京に定住がいいなあ…なんて思ったりもします。

でも、わたしがこうしてフルカラーな人間(自分で言うと恥ずかしいな)になれたのは、紛れもなく父のわけわからない転勤ばかりの仕事のおかげです。
お父さん、ありがとうね!

転校 -1回目- 福島からマレーシアへ

最初の転校はあまりにもいきなりでした。

なんていったって、辞令から2週間後には現地で働き始めていないとダメ!というものだったらしく、わたし以上にお母さんはバタバタだっただろうな。。
小学校に入学してわずか2か月しか経っていないのに、運動会で赤組が勝ったのに、わたしはまだセーラームーンごっこでジュピターしかやってないのに、なんで。

地元の公立幼稚園からほぼ持ちあがりだった小学校には、仲良しの友達がたくさんいて、初めてのクラスで少しずつ仲良くなった子もいて、すごく悲しかった。
転校がどういうものか全く分かっていなかったわたしは、全然ワクワクしなかった。

みんなから惜しまれながら、お別れ会をして、たくさんの折り紙手紙(折り紙を開いたら中にお手紙がかいてあるもの。すっごく懐かしい。)と寄せ書きをもらってバイバイした。

深呼吸ちゃんって、コワい

寄せ書きをみてなににびっくりしたって、見れば見るほど出てくる「さいしょは深呼吸ちゃんがこわかったけど、」という前置きの数々。

なんだこれ。わたしってそんなにコワかったの?

なにを隠そうと、わたしは当時から群を抜いて身長が高く(小学校卒業時で168cmだったので、この時の身長も察してほしい。)、まず物理的に圧があったんだろうな、たぶん。
しかもわたしはどちらかというと気が強い。嘘をついたかもしれない、気は強いです。

おもちゃを取られたらそんな理不尽さに耐えられず、かえして!と叫んでいたそうだし、ほかの女の子のことをいじめていた男の子にとび蹴りを食らわせ、頬にうわばきの跡をくっきりと付けたこともある。

お母さんは幼稚園ではたくさん謝ったな~と言っていたけれど、その通りだったと思う。ゴメンね…

わたしはいじめっ子なタイプではなかったけど、自分がカワいくて、正しいと思ったことは正しいし、ムダに正義感がつよくて周りをビビらせていた。

そんな自分には全く気が付かず、寄せ書きの「最初はこわかったけど、なかよくなったらすごくやさしくて、楽しかった」という文の最初の方にめちゃくちゃ傷ついたりした。

本物のグローバル

そんなわたしが目にしたグローバルは、マレーシア・クアラルンプールだった。
世界でもさまざまな国の人が暮らす代表として知られているマレーシアに移り住んだわたしは、そのなんでもオッケー!な精神に圧倒されることになる。

日本ってやっぱり正しいことが好きだし、ミスは嫌いだし、みんな常識がある程度あって、それをうかがいながら生活してる。

でもマレーシアは違った。

スーパーに行くと文法がめちゃくちゃの英語でポップが置かれていたり、ヘンなおじさんにいきなり話しかけられたとおもえば、売店のおばちゃんが抱っこして守ってくれたりする。

サービス精神も旺盛だけど、日本よりもハズレな対応をされたり、買ってみたら腐ってたりすることもある。
ひとことで言うと、全部にムラがあった。

正義100%!みたいなアンパンマン精神で育ったわたしは、「ああ、これでおっけーだったりもするんだ」「意外と嫌なきもちにならないもんだなー」ってたくさん学んだ。

人間ももちろんそうで、わたしが住んでいた日本人のコンドミニアムでは、清掃の人がいて、プールとテニスのコーチが来てくれて。ほとんどがアジア人だったような気がする。そういうコミュニティだった。

でも一歩外に出ると、女性はヒジャーブと呼ばれるスカーフを頭につけていて、男性は肌が黒い人が多くて、当時のわたしにはチンプンカンプンだった。
そういう一定の認識からすくい上げてくれたのは、通っていた日本人学校だ。

「日本人学校」というもの

文字通り、生徒はほとんどが日本人。日本国籍の海外の子もいたけど、みんなが基本的に日本語で会話をしていた。
でもぜんぜん違かったのは、その交友関係は数年と持たないこと。

定住している人はすくなくて、同じように転勤でたまたま通っている人がほとんど。海外赴任なんて2,3年で終わることが多いから、仲よくなったとおもったら「来週転校します!」なんてこともザラでした。

そこで私は「いまあるつながりを大切に」と学んだ。
さっきもちょっと触れたけど、学校では、用務員さん・清掃の人・スクールバスの運転手さんまでプリントに顔写真と名前を印刷して、みんなであいさつしに回った。
人種がちがくって言葉もつうじなくても、わたしたちは毎日あいさつをして、小学生のつたない英語でコミュニケーションをとった。

友達も、ふたりで秘密基地をつくったのに、つぎの約束がもうできなくなって。その秘密基地にはあたらしく転校してきてくれた子を案内してあそぶ。

何もかもがちがくても、おなじ時間を共有していくことが仲を深める一番の方法だと学び、拒否なんてしてたら何もはじまらないとひしと感じました。

一番奥ですました表情をしているのがわたし。笑
ほんとうにまるくなったのか?と疑われそうな一枚。

転校 -2回目- マレーシアから岩手へ

そんなオープン100%!の精神に育ったわたしが次に住むことになったのは岩手県でした。

その当時はマレーシアの入れ替わりの速さに慣れ、自分の転校にもさほど抵抗は感じていませんでした。「まあ、そろそろだと思ってたよ」くらいのデカい態度をとっていたんだとおもいます。

あとから気が付いたのですが、マレーシアと岩手県はアメカジとトラッドくらい異なるカルチャーを持っていたということ。今は分からないけど、当時はとにかく正反対だった。そのことを頭でわかる前に環境に飛び込んでしまったなと。

「地域」をたいせつにすること

マレーシアでだいぶまるくなったわたしは、深呼吸ちゃんはコワかったけど、と寄せ書きで書かれることを避けられました。セーフ。
いまでも当時の友人たちとは仲が良く、節目に飲みにいったりします。本当にいい経験だったなあ。

ポップなどうにかなるやろ♩精神で岩手県小学校に乗り込んだわたしは、痛い目を見ることになります…

まず、転校生なんてものはほぼ存在しなかったみたいで。岩手県の中でもべつに大きな都市ではなかったので、転校生・ナニソレ?状態のクラスに南の国からこんがり焼けた巨人がこんにちはしたのです。みんなそれはビビるよね。

最初は興味津々に話を聞いてくれた子もいたけれど、ヘラヘラしていたわたしは次第にまわりに舐められるようになりました。

学校のカリキュラムも少しずれていてわからない部分があったり、方言に全くなじめなくてみんなが何の話をしているのかわからない。「こいつ、レベルが低いかも」と思われるポイントが多かった。小学生なんだもん、そういう風に感じてしまっても仕方ない、と今なら思えます。

とくにわたしがびっくりしたのは、「〇〇ちゃんのお家はお金持ちだから」とか「〇〇くんのお母さんとは昔から仲がいいから」っていう理由で仲よくする相手を選んでいたこと。んもうこれはザ・古くからの人間関係!って感じがしますよね。

べつに悪いことじゃない、本心でそう思うけど、あまりにもカルチャーショックでした。
金銭の豊かさとか交流の長さより、”いま”相手とどう向き合うかを知らず知らずのうちに重要視していたみたいです。

当時のわたしは、なんでわたしばっかり・・ってたくさん悩んだり、もう学校なんて行きたくない!ってすこし不登校になったりしました。

でもそんなわたしにも仲よくしてくれる子はいて、そういう友達にすこし救われたりもしました。おなかを抱えて笑える相手がいることにはいつも感謝しなきゃなあ。

転校 -3回目- 岩手から神奈川へ

大海原とぎゅっとした船の上を経験した私は、小学校もラスト半年!でまた転校をしました。もう同じミスはしないぞと、胸下まで仮面をずっぽりかぶって。

よくある少しの抵抗

幸いにもいままでの3校はすごく穏やかで、全校集会でもみんな前を向いて気が遠くなる校長先生の話を聞いていました。

でもここでは違いました。

なんだか本能的に「怖い」と感じるような目つきをした生徒が、わけがわからない(言いすぎか)洋服を着て、先生たちに歯向かうように暴言を吐いたりしている。
正直、メチャクチャ怖かったです。

今思えばやんちゃな野球少年レベルなのですが、当時はこんなの見たことなくて、みんな普通の顔をしていて、どういう世界なのか、先生は注意しないのか、しても言い負かされてるのはなんで?!とお母さんに相談した記憶もあります。

ずっとねむっていたわたしの中の正義100%!のアンパンマンが顔を出して「おーい!ここで黙ってみててもいいの?」と肩をたたいてくる。
ウーン、ウーンとなりながら、ほかの女の子に嫌がらせをしている坊主に「やめなよ」と言っちゃったことで、なんだおまえの逆襲にも遭いました。

結局ここらへんのことはあまり参考になってなくて、のちに地元のDQNとしてお子さんをしっかり育てているとマジですごいと感動したりするくらい。
みんなこどもだったもんね。

ただ、ほんっとうにいろんな人がいて、自分に利益があればおっけーな人も、相手が自分より劣ってないとダメなひとも、はたまた他人とかあんまり興味ないよーっていう人もいる。
べつに認めるとか理解するとかじゃなくて、ただそこにいる。

そういうもんだなって小学6年生ですでに悟っていたわたしはまあめんどくさい大人になっているとは思うけど、いま叫ばれている多様性のテーマにはまあそうだよねくらいのテンションで参加できている。と思う、たぶん…

さいごに

やっぱり何事も目で見て肌で感じないとみたいな説教チックなことは言いたくないんだけど、百聞は一見に如かずなのは事実で。
感じてはじめて「解かる」こともあるから、平和な日本人だけでたくさん暮らしているいまの日本では、まだまだこれからも差別とか偏見で悩んだり苦しんだりする人も絶えないだろう。

そんな時にすこしでも思い出してほしいのは、なんだろう。ただ生きているということかなあ。
うまいことを言おうと思ったけど、なにを書いても押しつけになってしまう。それはわたしの感想だから。

自分で考えて出した正解ならそれは合ってるし、ほかの人にとやかく言われる筋合いはないよね。わたしも人の顔を伺ってしまいがちだけど、自分の決断をたいせつに生きていきたい。

そして、他人の決断もたいせつにね。

おわり


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