【日記】春と霧
どうにもこの季節は苦手だ。
嫌いではないのだけれど。
『春は人を狂わせる』と言うが、私も狂わされる者の一人である。
日が伸びて暖かくなることも、
夜に生暖かい風が吹き抜けることも、
草木が芽吹いて華やかになることも、
花を冷やして散らせる雨も、
五感という五感を刺激して、私の神経を逆撫でする。
まるで熱病のように浮かされてしまう。かろうじて地に足がついていない自覚はあるので自分を律しようとするが、春の狂気はあまりに圧倒的で、手も足も出ない。
どうしようにもなくなった体育座りの私は、車窓の向こう側で景色が次々に飛んでいくように、世界の移り変わりをただただ見詰めているような気持ちになる。まるで置いてけぼりの私を、嘲笑うように変わっていく世界に、恨めしさすら感じてしまう。
それでも私は動けない。
動いてしまうと、おかしくなってしまいそうで。
◆◆◆
退職が迫っている。
最終週は余った有休を使い切るため、今週でお仕舞い。
仕事は仕切ったはずなのだが、なんだかすっきりしない。
5年の任期を駆け抜けた先で、もう少し華々しいゴールテープが待っているかと思ったのだが、今の私は濃霧の岬の先端に一人で佇んでいるようだ。
未来も過去も、霞んでしまってよくわからない。
現在にぽつりと取り残された私に思考が介在する余地もなく、ただただ漫然と、霧の中で、その日が来るのを待つことしか出来ないでいる。
◆◆◆
大学院時代のイベントがあった。
お世話になった恩師の一人が定年退職になるようだ。
私と同じ道の、途方もなく先を走ってこられた方がゴールテープを切っている。その道の険しさや気の遠くなるような日々の積み重ねは計り知れない。
心からの祝福を。
頭の中ではそうしたいのだが、私は濃霧の奥で足踏みをしていた。
皆、口々にお祝いと惜別を悲しみ、酒を酌み交わす。
大団円とはこのことを言うのだろう。
頭ではわかっているし、形式上はそれに倣うが、追いつかない自分がいる。
そうなることを見越してか、ズルい私はカメラ役を買って出て、ファインダー越しにそれらを眺めた。
もしかすると霧の出処は自分なのかもしれない。
何かを直接体験するには、今の自分ではとても耐えきれなくて、霧やカメラやレンズを隔てておかないと、何かが崩れ落ちてしまうのかもしれない。
◆◆◆
同じ感覚は、院の修了時に遡る。
修了式、謝恩会、お祝いの会
餞の言葉や酒の力も相まって、その場に渦巻き膨張する高揚感に、私はやっぱり耐えられなかった。
いや、耐えられなかったことにすら気づけなかった。
肥大する高揚感の裏側に蠢くモノたちを見て見ぬふりしたくて、更に酒を煽った。そこにはモーニングワークも、”喪”もなかった。
身体から酒の匂いを漂わせ、見せかけの高揚感に酔っていた私は、もう既に霧の中に囚われていたのかもしれない。
◇◇◇
書きながら、わかった気がする。
この春の狂気と、あの高揚感はどこか似ているのだ、と。
明るく、暖かく、膨らんでいくかと思いきや、一転して冷たく、生温く、湿り滴るこの不安定さに追いつけない感覚は、高揚感に飲み込まれ、振り回されてしまう感覚と似ているのかもしれない。
春の高まりも、高揚感も、純粋に飲み込まれるだけの無垢な素直さがあればいいのだが、生憎私は、それほど綺麗な人間ではない。
かといって、高揚感の裏にあるモノたちを受け止め、転ばずに抱えられるほど出来た人間でもない私は、手も足も出せなくなった結果、全てを霧で覆い隠して、有耶無耶にしておくことで狂気を耐え凌いでいるのだろう。
◇◇◇
この先のことは、今の私には考えられないようだ。
一応色々書いてみたが全部消してしまった。
出てくる言葉は自責ばかりで、一見すると内省しているようにも見えなくはなかったが、果たしてそれは本当だろうか。
答えを出すことは、時々、何かから逃げているだけのことがある。
口当たりや耳触りの良い言葉を並べて一応の答えを出すことは出来る。”やらないよりもやる”ことは一種の美徳であり、価値があると持て囃されるが、本当にそうだろうか。
問いを問いのままで向き合い考え続けることも、時に必要ではないか。
この霧を抱えること。
静かに佇み、それを味わうこと。
答えが出るまで、この居心地の悪さも、
狂気に落ちそうな怖さも含めて、居続けること。
それが今の私に必要なことだと思う。
春の狂気にうなされながら。
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