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わかるとわからないの間に

「わからないこと」を言う人を

「わかってない」のは私である。

「狂っている」のは彼ではない。

狂気を抱えている人も

押し付けてるのも私である。
『わからないは誰のもの』はやぶさ

「わかりやすさ」は高い地位を得ているように思う。

書籍のタイトルしかり、YouTubeのサムネイルしかり。
情報氾濫社会における必要・不必要の取捨選択は、有限の時間を生きる上で重要なことだとも思う。

一方で、わかりにくいものはどうだろうか。
そもそもそれは、本当に「わかりにくい」ものなのだろうか。

子供の頃に読んだSF本の『将来、食べ物はどんどん柔らかくなっていって、人間のアゴは退化していく』という言葉と、顎が先鋭化したエイリアンのような人物のイラストを思い出す。

顎が本当に退化したかはさておき、似たようなことが起きてはいないだろうか。
柔らかく口当たりの良い「わかりやすい」情報ばかり飲み込んだ我々は、歯の立たない「わかりにくい」ものたちを食わず嫌いしていないだろうか。
ましてや、口にしてもいないのにまずいと断定したり、指さし笑い、火をつけたりしていないだろうか。
この場合、狂っているのは誰だろうか。

あるTV番組で、食レポについて『口に入れて、すぐ「美味い」となるわけがない』と苦言を呈していた人がいた。口の中に入れて、ゆっくり味わった上で、そこでようやく美味いになるはずだ、と。

それが本当に美味いかどうかは別として、舌先で感じられるのは主に甘味であり、側面、奥でようやく苦味や酸味を感知できることを思うと、彼の言うこともわかるような気がする。

物事はそんなに単純じゃない。
わかる部分、わからない部分もある。
その中間、わかるようでどうにもわからない部分や、わからないようで何故だかわかる部分だってある。

全てを一緒くたにして答えを出すのは、かなり難しいことだと思う。

答えは、問いにとって災いである
モーリス・ブランション


ゆっくり味わい、時に自分の中で寝かせておくことがあってもいいように思う。わからないをそのままにしておく勇気も、時に必要な気がする。






【あとがき】
まだ言葉に出来ていない部分もあるけれど、今はひとまずこの辺りで。
続きはまた今度、書き連ねてみようかな。

「蓋し、自分の身内や愛するものが作った料理に関してはその限りではなく、回答に暇を与えてはならない。時間をかけた回答は—そこにいかなる理由があろうとも―災いをもたらす。」

と似非哲学者的な一文を残して、お茶を濁しておきます。
お茶を濁さずにはいられない恥ずかしさは、
いつになったら薄れるのでしょうか




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