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谷崎潤一郎「痴人の愛」その3(完結)

 その1では、おもに「ナオミ」から見える当時の女性像、時代性について、その2では、「譲治」の実際の経済力と2人の関係性から見えるものについてお話してきました。

 今回は、参加された方々のご意見を中心に、「痴人の愛」の世界観、フィクション性や物語のパターン、影響を与えたと思われる作品などについてまとめていきます。 

<「痴人の愛」の非日常性・非常識ーそれを手に入れてしまうハッピーエンド> 

 またそれ(その2の内容)とは別にIさんは、『痴人の愛』について思ったこととして、小説には基本的にフィクションというか非日常性があると思うが、『痴人の愛』のフィクション、非日常性というのは、(譲治自身が語っているように)譲治とナオミの非常識的な関係性にあるのだと思って読んでいたけれども、今回の読書会で、実はむしろナオミの存在自体がフィクション的・非日常的に書かれていて、特に当時の読者にはそれが強く感じられたのではと思って面白かったとのこと。

 そしてこの観点から譲治という人物について考えてみると、そもそもは常識人だった譲治が、常識の世界に片足を残しつつ、途中で制御できなくなったナオミの非常識的な世界に足を踏み出していくもどかしさが面白く、そのもどかしさを共感させながら読ませていくタイプの小説ではないか。しかも常時的にはハッピーエンドで、もどかしさで読ませる小説には、二葉亭四迷『浮雲』武者小路実篤『友情』などのように、女の人が思い通りにならず、最後は男がふられる(男の主人公にとっての)バッドエンドのパターンが多いのに、もどかしさで読ませつつ、最後にはほしいものが手に入るという珍しい小説だといいます。


<読者に想像させる語りと甘美さ>

 とても面白い読み方だと思って聞いていたのですが、Iさんはさらに、しかしこのもどかしさというのも嘘で、その裏には甘美な世界が隠れていて、例えば最後に譲治とナオミがシャボンの泡だらけになる場面があるが、あの山場の場面を氷山の一角として、その氷山の下に、見えない=語られていない二人の甘美な世界があることを感じさせ、その抑制された語りに感心すると話されていました。
 なるほど、「ナオミの成長」と題した譲治の日記帳に貼られた数々のナオミの写真なんかも、そういう意味で断片によってそこに語られていない甘美な世界を想起させる氷山の一角といえるかもしれませんね。
 すると、このIさんの意見に反応したのが、やはり以前韓国の大学で日本語を教えていた事務局のKさん(女性)です。KさんはIさんの意見に共感して、ナオミが泣いている時に譲治がティッシュで鼻水を拭いてあげる場面を取り上げ、全体的にみると譲治はバカみたいに見えるかもしれないが、一方では不思議とその場面が美しく見えるといいます。つまり、鼻水や涙を拭くという一般的には汚いと思われることを通して、逆にそこに深い仲だからこそできる優しさや男女の親密さが伝わってくるロマンチックな場面だといい、まさに谷崎の真骨頂というべきすごさを感じたとのこと。
 

<譲治の経済力あってこその愛、所有・支配>

 ただ、その一方でKさんは、今回の読書会の話を聞いていて、『痴人の愛』との関係でよくいわれている『マイ・フェア・レディ』やその原作であるショーの戯曲『ピグマリオン』よりも、むしろゾラの『ナナを思い出したといいます。というのは、ナオミは譲治にどんどんお金を使わせていくわけですが、これは明らかに近代の資本主義的な価値観で、愛がお金で測られていく、あるいはお金で愛の力関係が決まっていくという点で、『ナナ』を思わせるものがあるという指摘です。『ナナ』はこの当時日本でもよく読まれた小説ですが、このことと関連して、譲治のナオミへの愛にも、自分がつくり上げた作品に執着する物質主義的なもの(単にフェティシズムというだけでなく)が感じられ、『痴人の愛』はそういう資本主義的な所有欲を感じさせる物質主義的な愛と、甘美で親密なロマンチックな場面とが共存している不思議な作品だという気がだんだんしてきたとのことです。


<発表媒体の変化が作品に与えた影響の可能性> 

 最後に、会の終わりに聞いた感想や意見で面白かったのは、司書のSさん。『痴人の愛』は最初『大阪朝日新聞』に連載されますが途中で連載中断、その後発表媒体を雑誌『女性』に移して書き継がれました。Sさんはこのことに関して、発表媒体が新聞から女性誌へと変わったということは、想定される主な読者が男性から女性へと変化することになるので、そのためにどういう工夫がなされているのかという点に注目。具体的にどう変化したのかはまだわからないけど、と前置きした上で、書いていくうちに、何らかの転調があったのではと推測していました。
 鋭い指摘ですね。そういう視点から、調べてみると面白いことが出てきそうです。
 

<男から見て「悪い女」には罰が下るのか、あるいは下すべき?>

 もう一つ、Sさんは『痴人の愛』の物語の型にも注目しています。というのは、奔放で不倫をしたり借金をしたりする女は破滅する暗い結末のパターンの小説が多いとして、有島武郎の『或る女』やフローベールの『ボヴァリー夫人』などを例に挙げ、特に『或る女』は同年代に発表されているので、意識されているのではないかと推測。その上で、それらの作品とはまったく対照的に、ナオミの場合は、そんな懲罰的な暗い結末なんかぶっ飛ばす勢いで、さらに思い通りの生活を手に入れていくし、どんどん美しくもなっていく。そういう意味で痛快だと思ったと話してくれました。

 なるほど、面白いですね。そういえば『痴人の愛』にもナオミが読んでいる小説として有島武郎の『カインの末裔』が出てくる場面がありますし、そこでナオミは有島を「今の文壇で一番偉い作家だ」と評しているので、谷崎は有島の小説を十分意識していたでしょう。そして、有島が『或る女』を創作する上でヒントになったといわれているトルストイの『アンナ・カレーニナ』もまた、不倫の果てに女が破滅する話です。そういう男目線で、「悪いことをした女は最終的には破滅する」という小説は、いわれてみれば確かに多いですね。それで思い出したのですが、私が大学の講義で『痴人の愛』をテキストにすると、試験の最後で学生に感想を書かせるのですが、男女とも一定の割合で、「ナオミを痛い目に合わせてほしかった」という感想を書いてくる学生がいます。これもある意味で、そうした男目線の物語の型を知らないうちに内面化しているのかもしれません。
 Sさんは最後にナオミについて、自分の思い通りに物欲も性欲も全部かなえていく。しかもそれでいて女性の権利を叫ばない。そういうキャラクターって面白い!、と締めてくれました。
今回もキレキレの意見で会を盛り上げてくれたSさんでした。

さて、『痴人の愛』は今回で終わって、次回は日本文学の告白小説の元祖ともいうべき、田山花袋の『蒲団』を読んでいきます。

<まとめ>

3回にわたって「痴人の愛」の世界を振り返ってきました。

ー「ナオミ」は、単なる魔性の女というのではなく、同時代の流行や社会背景が投影された存在であること。

ー「譲治」もまた、「エリート」「富裕層」「経済力」が投影されていること。

ーさらに、その背景や影響を与えた様々な作品を考えると、「痴人の愛」が単純な官能小説ではなく、男女関係、当時の社会、それまでの小説、西洋崇拝などを風刺しているように見えてきませんか?そして、それは次回の「蒲団」の世界とも無関係ではありません。次回、田山花袋の「蒲団」もお楽しみに!

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