見出し画像

記憶とか映画とか 昔の日記のとりとめのなさ

以前「日の名残り」という映画を観たことがある。1994年ごろだったと思う。
まず題名に惹かれた。どこか日本的だなと感じた。でも、ポスターを見ると名優アンソニー・ホプキンスが主演で、イギリス映画だった。

アンソニー・ホプキンスは映画「羊たちの沈黙」で大好きになった俳優だったし、
(原作のトマス・ハリスの作品は小説「ハンニバル」が好きだ。リナルド・パッツィ刑事の破滅に向かう熱っぽい様もいいし、資産家メイスン・ヴァージャーの長期的で凄まじい復讐計画を冷静に淡々と描いている文章がいい。映画「ハンニバル」ではジュリアン・ムーアがクラリス役だったが、小説を読んでいる最中は、ジョディ・フォスターを思い浮かべてしまう。ジョディ・フォスターは映画「羊たちの沈黙」のクラリス役で、頑張って精一杯気を張っているような鋭い目がいい。)
アンソニー・ホプキンスが出演しているなら間違いは無いような気がしてレンタルビデオ屋で借りて観た。
内容は、あまり覚えていない。よく解らなかったのだが、なにかとても静かで、中心からすこし下がるような「ある重み」を感じた。それがなんだかわからないまま、忘れてしまった。


「日の名残り」が日本人が書いた小説が原作だ、と聞いたのはつい最近である。カズオ・イシグロの名前を聞いたのも最近だ。正確には、カズオ・イシグロは日本人ではない。5歳で渡英していて日本語は話せない。処女作を発表する前に国籍もイギリスにした。端正な英語文、初期の作品では日本を描いていたそうで、小津安二郎の映画に影響を受けたという。どんな人物なのだろうとカズオ・イシグロについて気になっていたところ、
ETV特集「カズオ・イシグロをさがして」
2011年4月17日(日)午後10:00~午後11:30(90分)
を見ることが出来た。カズオ・イシグロ著の「わたしを離さないで」という臓器提供のためだけに生まれたクローン人間の小説がマーク・ロマネク監督で映画化されたということだった。

番組内でカズオ・イシグロと分子生物学者の福岡伸一が対談する場面があり、カズオ・イシグロが扱う小説のテーマに「記憶」があるのではないかという投げかけに対して、いくつか対話が続いた。その中で、「記憶とは死に対する部分的な勝利ではないか」というカズオ・イシグロの言葉が心に残った。

「ある人が亡くなっても、残された周囲の人たちのその人についての記憶はなくならない。それは、記憶が死に勝利したといえるのではないか。記憶とは死に対する部分的な勝利といえるのではないだろうか」



記憶は死に勝つ か。それまで出会ったことのない考え方だった。私はいままでどうして残されたのだろうと考えてきた。「亡くなった人が去ってしまって、残された人」という立場が自分であるとしてきた。その人と共有していた記憶が自分の物だけになってしまって、その人の分の記憶は欠けてしまったし、記憶を共有することが出来なくなってしまったと思ってきた。

カズオ・イシグロは、「残された記憶」に、いや「残された」という形容は入っていない、ただ、人の持っている「記憶」に焦点を当て、重みづけをしている。
そもそも、人が持っている「記憶」に対して敬意を払っている、と感じた。

カズオ・イシグロのいう「記憶」は脳に蓄積された信号だけでなく、感情の詰まった心のことも同時に指していると思う。(私はどちらかというと区分しようとしていたのかもしれない。)

「記憶」は「我は我である」ということへ結びつける要だと思う。
記憶を失うことは、記憶に結びついている我を失うということだと思う。

人の心・記憶を本当に覗くことはできない。建前を磨けば、どんなことを考えているか表面的にはわからないようにできるし、心や脳は記憶を自分にも隠すことが出来る。非社会的な考えはタブー視されて、社会的抑圧が内包されている個人の記憶にも意識できない層でのタブーもあるだろう。社会的無意識領域に抑圧したことで考えが進まなくなり、考え抜くことができなくなると、ある一定の答えなり問題提起なりはできても、それ以上の何かにはならないのではないか。話が逸れたか。

分子生物学者の福岡伸一もおもしろいことを言っていた。
「人間は固体でなく、液体である」
「さらに言えば、気体である」
ある巨視的な長期的な見方によって、という注釈がついてたと思う。

二人は英語で対談をしていたので、福岡伸一も英語で質問していたのだが、「Gas」という発音だけが私はよく聞こえて、そうか人間はガスなのか、と、しばらく「Gas」が頭をぐるぐる回った。
なんだか頼りないような、でもどこか身軽になったような気分がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?