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西洋中世の学問

巷で混乱している西洋の学問について書いてみます。


”Science”と”Wissenschaft”

以下上記の要約です。

ラテン語で”scientia”,英語では”science”,ドイツ語では”Wissenschaft”,共に,知識一般という意味しかなく,そこには「(分)科」した,つまり「科・目」に「分・科」あるいは「分・類」された「科学」自然科学やその他の個別学問を区別しませんでした。

”Science”はラテン語の動詞”scire”(知る)を名詞化した”scientia”(スキエンティア:知識)が語源、この言葉ではフィロソフィ:自然哲学と今日で言う自然科学の差はありません。ドイツ語の”Wissenschaft”も全く同様で、ドイツ観念論哲学を訳すときこの言葉は「学」とか「学問」とか訳されてます。

そして、1850年代以降、自然科学が急速に発展し、フィロソフィと自然科学の分野が明確に分かれ、”Science”はもっぱら科学を意味する言葉となりました。

なお、以前は現在はもっぱら哲学者と思われている学者もフィロソフィとしての自然哲学の研究をしていました。アリストテレス、ライプニッツ、スピノザ、カント、ヘーゲルなどが有名です。

全体が先行し部分を決定づけるとされていた中世

”Science”と”Wissenschaft”が全体であったのは中世のパラダイムだったようです。

「ヘルベルト・ブレーガー「ライプニッツ哲学における全体と部分」(稲岡大志訳)「全体が先行し部分を決定づけるとされていた中世の全体と部分の考え方に対して、近代以降は部分が先行し全体を構成するという話になる、というのが基調としてあり、それを四つの領域(数学的連続体、霊魂論、物体の構造、解析と総合の方法)に認め、ライプニッツがそれぞれにどういう立場を取っていたか検討するという内容」
「ライプニッツがいわば過渡的に、同論考で中世・近代とそれぞれ括られた両方の考え方に立脚しているらしい」

「部分と全体」の歴史的展開https://www.medieviste.org/2015/01/20/%e3%80%8c%e9%83%a8%e5%88%86%e3%81%a8%e5%85%a8%e4%bd%93%e3%80%8d%e3%81%ae%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e7%9a%84%e5%b1%95%e9%96%8b/

中世の大学とフィロソフィ

中世では自由七科全体がフィロソフィ=学問でした。

「大学は神学部・法学部・医学部が中心であったが、学生はこれら専門学部で学ぶにあたって先ず最初に、すべての技芸=知識の基礎であり、あらゆる 専門的技芸=知識の前提・土台となる自由七科を哲学部において習得することが求められた。これが大学における教養課程のルーツ 」
「哲学は英語で philosophy、ドイツ語で Philosophie[フィロゾフ ィー]、ラテン語では philosophia[ピロソピア]というが、これは周知のように「知を愛する」」「そのものを指しており、 つまりは「知識・学問」と同義」 
「下に自由七科のリストを挙げてあるが、これを見ると、ここには哲学は入っていない。なぜなら自由七科すべてが哲学だからである。ところで哲学は その根本的語義からいえば、すべての学問を包括する概念であるが、artes mechanicae と対立させると、artes liberales のみを指すことになる。上記の「法学部」や「医学部」に対して、「哲学部」があるというときにはこの意味」

「リベラル・アーツ」とはなにか ――大学における「教養」―― 基盤教育センター ドイツ語学科 寺門 伸 https://web.archive.org/web/20111011020422/http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/liberal_arts.pdf

自由七科

自由7科”septem artes liberales”(ラテン語 セプテム・アルテース・リーベラーレース)
3科(トリヴィウム)
→文法”Grammatica”・修辞”Rhetorica”・弁証”Dialectica”
4科(クアドリヴィウム)
→算術”Arithmetica・音楽”Musica”・幾何”Geometrica”・天文”Astronomia”

カントの『諸学部の争い』

イマニュエル・カントの晩年の著作『諸学部の争い』に諸学部の位置づけがありましたので関連記事の要約を記載します。

上級学部である法学部、医学部、神学部の三つは、いわば国家システムが社会を統治する三つの基準を示しています。人間社会を統治し計る基準は法学、身体を統治し管理する基準は医学、人間社会を越えた世界を統御するのは神学です。

これらの三つの分野は、国家があらかじめそのシステムに組み込んでいる正当化の三つの領域を代表しています。大学はそういう正当性を与える理論や権威を勉強する場所なのです。

しかしながら、下級学部として位置づけられていたフィロソフィ(自由七科)は、そうした社会のプログラムに組み込まれ得る目的に基づいていない。ではそれは不要でないか?という論争がありました。

カントは、上級学部の三つは既存システムに対しての合目的的な判断、つまり合システム的な判断しかできない、と批判します。

法学、医学、神学は通常の技術(学部)よりも上位ではありますが、規定的判断を前提にしています。であれば、規定的な技術を習得させる専門学校の理論編になります。

ところがフィロソフィ(自由七科)は、こうしたそれぞれの技術内の都合、規定的判断、すなわち突き詰めればそれぞれのシステムの効率、エコノミー、利害に作用されない。いかなるシステムの都合からも離れて判断できます。

反対に言えば、下級学部としての哲学部は、すべての技術の基礎を学び直すことで、それを問い直すことができる、哲学部のなかにはすべての専門領域が含まれています。

それ以外の上級学部、法学部、医学部、神学部は既存の制度を前提として、それを成り立たせる概念から規定的に延長される規定的な判断しかできません。

このように、カントによれば、哲学部は上級学部よりも重要な学部なのです。フィロソフィ(自由七科)は、既存のシステムを批判的に問い直し、新たなシステムを構想する力を備えているとしました。

ratio 整数比=有理数(理性・合理)こそGODの秩序であった

上位4科はすべて数の学問であり、完全な数比関係こそ神の秩序の考えにふさわしいものだったが、ピュータゴラースの数比的思想やプラトーンの考えが時代を経て変化したネオプラトーン的なローマ学問の思想が、この考え方の土壌を形成している。つまり、ここで云う音楽はつまり音と音の比率などの学問

https://tokino-koubou.net/classic-history/medieval/hwm2-6.htm


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