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”logos”:「ロゴス」と”ratio”:「ラティオ」の違いとその日本語訳語の混乱

”logos”と”ratio”は、ともに日本語では「理性」を意味する言葉です。

古代ローマのセネカは”logos” を” ratio” と訳したのはキケロだとしたそうです。

しかし、両者にはいくつかの違いがあります。

”λσγοs” とは

まず”logos”です。もともとは集めるという意味だったそうですが、のちに「言葉」という意味が付与されました。

「ロゴスが「言葉(言語、語りかけ、 言語的規定作用)」という意義を帯びるのは、ソクラテスの時代以後のことである。ロゴスの動詞である「レゲイン(legein)」の意義は本義的には「集める、拾い上げる」(転じては、数える、算定する)である」

古代ギリシアのロゴス -隠蔽と露呈としてのロゴス https://kougei.repo.nii.ac.jp/records/792

その意味は極めて多岐にわたっています。

「ギリシヤ語で、今日我々の用いる言葉に相当するものは、ロゴス(λσγοs)であると思わるが辞書を開いみると、ロゴスという言葉の意味や用法は、人により時代によって種々雑多である。おそらくギリシヤ語の中で、その右に出ずるものはそう多くはあるまい。すなわち計算勘定などから話し、物語、説明関係などを経て、比率、均衡、理由、根拠、さらに口頭による表現、あるいは言説などに至るまで、その数はきわめて多い」

ロゴスとこと
稲富 栄次郎
1976 年 1976 巻 33 号 p. 1-14

DOI https://doi.org/10.11399/kyouikutetsugaku1959.1976.1

アリストテレスは『弁論術』において、”logos”を「ものごとの真理や本質を理解するための根拠となるもの」と定義しています。

”ratio” とは


一方、”ratio”は、ラテン語の”ratio”に由来する言葉で狭義には「比較」「比率」「計算」などを意味していました。

ギリシヤにおいては、言葉と理性、理とは分れないものであった。ローマにおいてはこの両者が分離して言葉(Oratio)と理(ratio)とが分離した

ロゴスとこと
稲富 栄次郎
1976 年 1976 巻 33 号 p. 1-14

DOI https://doi.org/10.11399/kyouikutetsugaku1959.1976.1

アリストテレスは『範疇論』で、”ratio”を「ものごとの相対的な関係を理解するための根拠となるもの」と定義しています。

そしてratio すなわち整数比は、フィロソフィ:septem artes liberales (セプテム・アルテース・リーベラーレース 自由七科)の中でGODの秩序を表す中心的なものとなりました。

土台となる言語を学ぶ3科(トリヴィウム)→文法Grammatica・修辞Rhetorica・弁証Dialecticaを学び、その上位として数により世界の秩序関係を解き明かす4科(クアドリヴィウム)→算術Arithmetica・音楽Musica・幾何Geometrica・天文Astronomiaを学ぶ事とされていた。上位4科はすべて数の学問であり、完全な数比関係こそ神の秩序の考えにふさわしいものだったが、ピュータゴラースの数比的思想やプラトーンの考えが時代を経て変化したネオプラトーン的なローマ学問の思想が、この考え方の土壌を形成している

https://tokino-koubou.net/classic-history/medieval/hwm2-6.htm

”logos”と”ratio”の違いとその日本語訳語の混乱

このように、”logos”はより広義で抽象的な概念であるのに対し、”ratio”はより狭義で具体的な概念です。
日本語では、”logos”は「理性」「意味」「言葉」などの訳語が使われており、”ratio”は「理性」「比較」「合理性」などの訳語が使われています。

また”logos”と”ratio”の訳語を区別せず、「論理」、「合理」、「比較」、「判断」、「思考」など、さまざまな言葉が混乱して用いられることも多く、これらの言葉の違いを理解できていません。

しかも、これらの訳語は、必ずしも両者の意味を正確に反映しているとは限りません。例えば、「理性」という訳語は、”logos”と”ratio”の両方に用いられるが、両者の意味合いには違いがある。”logos”は、ものごとの真理や本質を理解するための根拠となるものであるのに対し、”ratio”は、ものごとの相対的な関係を理解するための根拠となるものです。
また、「比較」という訳語は、”ratio”の意味合いの一部を正確に表現していますが、”logos”の意味合いを十分に表現しているとは限らりません。”logos”は、比較だけでなく、言語や意味といった抽象的な概念も含む概念です。
このように、”logos”と”ratio”の違いを正確に理解するためには、両者の意味をしっかりと理解しておくことが重要です。しかし、日本語の訳語が多様で、その意味合いが必ずしも明確ではないため、理解が妨げられる可能性があります。
そこで、”logos”と”ratio”の違いをより正確に理解するためには、以下の点に注意するとよいでしょう。

  • ”logos”と”ratio”のそれぞれの意味をしっかりと理解する。

  • ”logos”と”ratio”の訳語の意味合いを理解する。

  • ”logos”と”ratio”の違いを意識しながら、用語を使い分ける。


朱子学の「理」について

「中国朱子学においては」「「理」 はその質料を成立させる根拠-意味、形而上の存在であり、主として人間学に係わる、とされる。さらに朱子自身の思想形成でいえば、まず朱子は周濠渓の存在論と程伊川の理の哲学から出発し、やがて張横渠の気の哲学や部康節の宇宙論を取り入れて、自然と人間の両領域を覆う壮大な学問体系を樹立したのである。従って、朱子個人の思想史でいえば、単なる 「理」と「気」の二元論的接着ではなく、理の哲学がまずあって気の哲学がそれに包摂されたのである。朱子において、既に「理」の形而上学の意味における「理学」という語は初出していた」

「太極は万物の統体であり「ただこれ一個の理学である」と。逆に言えば、万物はおのおの、太極 (にして無極) という形而上的「理」を備えている、ことを扱う学が「理学」、であった。朱子学において『朱子語類』巻一の、これ理有りて後、これ気生まる、 有是 理後生是気」 とあるように、朱子においては理の気にたいする優先がいわれる。理は「形相」と違って表象性がなく「ロゴス」と違って物質性を拒否する。しかし同じ巻一でも別の箇所で、理が気に遅れて出る意味のこともいう」

http://doi.org/10.15055/00002492

近代日本における「理学」概念の成立


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