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「べき論」は思考を停止させる論調

はじめまして、佐々木です。

プロフィールにも書いてますが、僕は「べき論」が嫌いです。
「べき論」って思考を停止させる論調だと思っています。

そもそも「べき論」とはひとつの論調に過ぎません。ひとつの論調に過ぎないにも関わらず、誰が発したかで大きな強制力が生まれます。例えば、上司と部下の関係であれば"業務命令"に近いニュアンスになります。命令となれば、仕事を進める上で疑問があっても折れざる得ない状況が生まれ、「俺の言う通りにしろ!」となろうもんなら、もう思考停止です。

講師をしていると「べき論」を振りかざす人もちらほらいます。

研修で、しかも「講師」と「研修生(受講者)」という関係になれば、講師の「べき論」は強制力が高まり、受講者が考える余地を奪うことに繋がりかねません。

また、「べき論」がそのまま利用できるかどうかは別問題です。

ある意味、「べき論」はこれまで培ってきた経験ベースで導かれた論調です。それはそれでひとつの実績なので大事だと思っています。ただ、そのまま再利用できるかどうかはきちんと考える必要があると思っています。

環境、利害関係者、立ち位置、競合、などなど様々な要素が関係してくるので、「俺の時はこうだったから、こうするべきなんだ」の「俺の時」と今が同じか(似てるか)どうか、そこが欠落してはただの暴言になり得ます。

そういう理由から、僕は「べき論」を振りかざすことが嫌いですし、講師をしているときも「べき論」は使いません。もちろん、プログラミングを教えていることも関係しているかもしれません。(プログラミングは正解と言えるものがないので。)

新入社員研修において、講師に求められる役割は「いかに、受講者が自分の頭で考えられるようなキッカケを提供するか」だと思っています。講師の実績を自慢する場ではありません。オラオラ、ぶいぶい言いたいなら余所でやってください。講師が主役ではありませんから。

ここまで言っておいてなんですが、理想を語ることは嫌いじゃないです。
理想がないと目標も設定できないので。
ただ、言うだけで終わりが無意味だと思っています。

「べき論」で思考停止にならず、
・本当にそれでいいのか?
・そのときうまくいった理由は何か?
・他の案はないのか?
など、きちんと自分の頭で考える、疑問を持ちましょう。
そして検証しましょう。

やっぱり、自分で考えて取り組んだことじゃないのと自分に残りません。

考えることを放棄するのは楽なので、怠けないようにブログも運営しています。SE×講師のキャリアの経験知を中心に発信しているブログですが、僕が普段どんなことを考えて、どんな価値観を持っているかを見ていただけると思います。

考えていることを、疑問に思ったことは随時Twitterでつぶやいています。

note では「SE×講師」というハイブリッドSEとして働く上で身につけたスキルやノウハウをメインにコンテンツを作っていきます。

今後ともよろしくお願いします。

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