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皆さま、お疲れ様です。
本さつまや7代目料理長の岸本竜彦です。
本日も宜しくお願いいたします。

モトサツブログ、本日は「蕎麦」について書いてみようと思います。

蕎麦に特別な思いを持ったきっかけ

私が蕎麦に特別な思いを持ったきっかけは5、6歳の時にセンタープラザの名店街にあった三笠うどんで食べたざるそばだったと思います。

その日は夏休みで熊本市独特の灼熱地獄の中、叔母の美千子

汗ダラダラで鶴屋から下通り、新市街、岩田屋伊勢丹まで買い物をしながら15時頃の遅めの昼食にセンタープラザの三笠うどんに滑り込んだ気がします。

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(センタープラザと岩田屋伊勢丹)

熱波と空腹の中、啜ったざるそばの心地よさを今でも薄っすら覚えています。

それまでは外食の時は反射神経で肉うどんを注文していたのですが、その日以来ざるそばがナンバーワンにランクインされました。

21歳の時に松葉でバイトを始めると大石そばを見つけ、大人の嗜み的な蕎麦に出会いました。

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(大石そば)

サライや男の食彩などの雑誌を見ていて東京が本場だと知り、興味を深めていきました。

テレビの鬼平で雰囲気を掴み、NHKのお江戸でござるの杉浦日向子さんの食彩浪漫に連載していた酒器十二ヶ月を読んでいて、彼女の著書の『ソバ屋で憩う』に出会いました。

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この時がちょうど就職活動中で上京の機会に恵まれ(今思えば、蕎麦屋への憧れから在京の会社を選択肢に入れていたのかも)、この文庫本をバイブルに蕎麦屋のハシゴがスタートしました。

並木の藪、室町砂場、傘亭、神田まつや、永坂更科布屋太兵衛、利庵など、年に5日程の修行中の休日を掻い潜って熊本から日帰りで3軒回って帰るなどしていました💧

熊本でも給料日限定の大石そば(閉店)で湯桶とミニ丼。ひさや(閉店)で梅冷やしうどんとさくら丼、森山そば(閉店)のおろし蕎麦、正木屋のざる、井上そばのせいろそば、緑風亭のランチなどで楽しんでいました。

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(大石そばの湯桶)

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(生そば森山)

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(生そば井上)

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(緑風亭)

数年後、

矢部に帰ると手打ち蕎麦屋はありませんでしたので、自分で打ってみようと思いました。

TSUTAYAに行くと高橋邦弘さんの書籍がダントツで惜しげもなく技術を披露されており購入。

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1週間限定で修行したくて電話をすると、「とりあえず来てごらん」と軽〜い返事。広島まで車を飛ばして6日間住み込みでミッチリ修行。

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(広島県長笹の達磨雪花山房)

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(当時の高橋名人)

ある程度カタチになって残りは帰って独学。ヒマを見つけては家族に食べてもらっていました。

月一回のそばの日の始まり

近所の山村茶舗の先代が茶葉の閑期に蕎麦屋をやっておられたと聞き、直接指導を受け、蕎麦道具も授かりました。
なぜ蕎麦打ちを辞めたんですかと山村さんの先代に聞くと蕎麦を楽しむ時代からラーメンを楽しむ時代に変化して、おちかラーメン、味千ラーメン(閉店)、まるけんラーメン(閉店)、大福ラーメン、富士ラーメンと増えていったので、蕎麦打ちを辞めたそうです😢

数年経ち家族からも美味しいと言われ始めたのでお客様に出してみようかと思って仲間に飲み会で相談したところ、今から食べようとなり、夜中に七光の橋本さん、第一タクシーの大祐さん達に食べて評価をもらったのが、今の月一回の蕎麦の日の始まりだった気がします。

そうこうしているうちに熊本市内でも大石そば、ひさや、森山そばが閉店しました。
地元では蕎麦文化を作る会が発足したり、師匠の高橋名人が来町するという偶然が起きたりしました。

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(山都町蕎麦文化を作る会。高橋名人の隣で捏ねているの熊本の雪花山房の御主人)

やがて熊本市内で堅平更科(現在は閉店され、同じ場所に天蕎かたへいをオープン)と雪花山房などがオープンし、関東の本場の雰囲気が熊本で味わえるようになりました。


私が月に1回打つ蕎麦は15年程たった今でも本家の蕎麦には程遠く、私の蕎麦は趣味の延長だと思っています。蕎麦文化がなかった近所の浜町の方達を楽しませることはできますが、関東や阿蘇地域の方に楽しんでもらうことは出来ていないと知っています。

隣の甲佐の同じ年で一緒に少年剣道をやっていた井芹君が柳屋で僕より美味しい蕎麦を打っています。


でも、なんだかんだで死ぬまで蕎麦を打ち続けようと思っています。

末永くよろしくお願い致します🙇‍♂

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