お客様は「神様」の新しい解釈の提案

現代では接客において「お客様は神様だ」という言い習わしはもはや死語を通り越して口言ご法度であるが、これは「神様」という概念があまりに表層的にしか言語化されていないのではないかと私は思う。

「神」のような超越概念が自然科学で証明できないのはそもそも自然科学が対象にする事柄である「経験」を超越しているからである。ここでいう「経験」とはかつてのギリシャやヨーロッパなどの生活環境が様々な要因で好き勝手に膨らむ人々のフィクションを統一する必要があり、「何が在って、何が無いか」もっと言えば「何は相手にする必要があり、何は相手にする必要が無いか」にある程度一様な解釈を求めたからである。(これらについて私はあまり詳しくないが、例えばバベルの塔の寓話もそれに近く感じる)
しかしこれは一筋縄ではうまくいかず、時に悪しきフィクションを作り出して古代アレクサンドリアでの女性科学者迫害や魔女狩り、コペルニクスの処刑などの現代では考えられないほどの残酷な事件を引き起こした。どの物語を信じるか。これは物語的動物である私たちに課せられた使命のようなものである。自我や推し、趣味、仕事、学問、スポーツ、芸術、googleやchat gpt など私やあなたの作り出した物語を統べる神たちは無数にある。

あなたの世界のすべてを統合するマザースクリプトを「人生哲学」と呼ぶかもしれない。それが間違っているのか、そのままでいいのか、それは自由なあなたと、不自由なあなたがどのようにバランスしているかにかかっている。


誰でも、自分の作り出した物語を信じることができる。それらをすべて統合する「何か」が「神」であるとすれば、それのために必要以上に身を亡ぼしているのならばもうその調和は崩れているといえるのではないか。

第二の戦前ともいわれるコロナ後の今であるが、世界経験の仕方もそれに依存する「主語」「主観」「相手」などの語の受け止め方や身の処し方、美意識も大きく異なっている。

恐らく同じ日本語を用いていても、その非言語的な部分の在り方は全く別物なのかもしれない。


勝手な私の意見だが、お客様は「神様」とは「お客様」を無上のものとして何があっても忖度し、服従することなどではなく

空間に現れた「相手」という偶像を頼りに自身の統合意識を「神様する」ことなのではないだろうか?


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