ある種の成功体験がある人には、根拠のある自信と煩悩が付きまとう

高校くらいまでの学校生活を楽しくしてくれるスポーツや勉強の出来、リア充かどうかなんてそれ以降は逆に足手まといとなることさえある。母数が一気に上がればクラスで1番程度の能力にプレミア価値はつかないし、充実してそうに見せることのうまいやつより己の孤独と向き合ったものが己の人生を歩むという最大の幸福をつかむ。学生時代は単なる道楽とみなされがちな趣味やユーモアのほうがよっぽど人生の主役だ。
私は部活も勉強も自分勝手が過ぎるほどに己のやり方で楽しんでやった結果、社会性が一切育たなかったためかこのところバイトが全く続いていない。

 社会的スタンスとしては幼少期からずっとめちゃくちゃ人気者になるか、全体にうっすらと嫌われるかのどっちかだった。参加する側、つまり「見る側」よりも「見られる人側」で自分の遊びに乗ってくれる数人と仲良くしていた。僕の周りに集まってくる人は独特のセンスがあったり、何かをかなりのレベルで極めていたり尖った個性を持った子が多かった。僕自身は自分が興味を持ったことをある一定期間とことんやって気づいたらほかの関連テーマに移っている、という子だったので結構そういったずっと一つのことに一本気な子たちとは性の合う部分と、相反する部分が重なってちょうどよかったのかもしれない。


宿題は嫌いだったが授業中に発言したり発表したりするのは好きだったので家全く勉強しなくても中2くらいまでは上位5~10パーセントくらいには入っていた。だからって自分が頭がいいとは思ったことがない。明らかに抜けていて世間知らずで、後先考えずに行動・発言するし、戦略系ゲームは激よわだし楽しいと思ったことがない。それよりダンスとかマジックとか、人の反応が見られてそのための準備に勤しんでいるときも楽しいような、自分で自由に発想して創ることが何より好きだった。みんなが思い込んでいる常識に新しい見解を投げかけたり、自分がおかしいと思ったら意地でも反発したり、より専門的で確かな情報を伝えたりすることもその次くらいに好きだった。

だから「受験のための勉強だぞ!」みたいなノリや創意工夫や明るく根拠に基づいた闊達な議論がなされない部活動は死ぬほどクソ腹立ったし馬鹿にしていた。

中二の時不良気取りの坊ちゃんの連れに絡まれたからお愛想で中指を立てた。そしたらリーゼントもどきの坊ちゃんが教室に殴り込みにきて胸ぐらをつかんできたから「お前は頭も悪いし、何も私にかなわないから俺に嫉妬してるだけだろう!?」と今思えばとんだ筋違いのとばっちりを言ってしまってそのあと胸ぐらをつかみあい、唾のかけ合いをしたせいかインフルエンザになって部活を2週間くらい休む羽目になったが全て熱き青春ドラマの演出であってその時の私は心から腹など全く立てていない。ただ、熱い何かが形だけでも欲しかっただけ。

なんというか、もっと幼いころからお決まりの物語というか「筋書き」のようなものが団子のように固まって動く人間どもにはあるように私には見えていた。そして、それをいつもからかっていた。よからぬ新興宗教に高額のお布施をする信者のように愚かだと思っていた。だって私はその神や教祖なんて知らないし信じてないんだもんっ!!

だけども、かくいう私も科学的なものの信者にすぎなかった。数学や科学も人が生み出した一つの信仰であって現実のメタファーだ。残念ながら我々は反射や本能だけで生きていける仕様ではないので「自然とともに、自然のまま生きていきたい」と理想を語ったところで全く物語なしには生きられない。

月並みなことを言うが、評価軸を誰かが決定しているなかで何かをやってたまたまうまくいっても真の自信や成功の喜びにはつながらない気がする。

初めは何も考えずに楽しく、気楽に思い切りやって、自分の物語を作って徐々に「自然」と「自分」の間を、「からだ」と「こころ」の間を「あたま」でつなげていく。誰でも寂しがりなところがあるからその場では承認欲求が満たされて浮かれてしまうが、その興奮だけでどこまでいけるかはわからない。身体は構造上どこかではどめが利くようにできているし、本来そうあるべきなので無理な力がかかり続けるとどこかでそのしっぺ返しがくる。焦って何かをどうにかしようとするよりまず、「それにおいてそれ」であることができていないと一瞬の永遠には及ばない。

だから、人生は何かをなすにはあまりにも短いと誰かが言ったが
慌てて結果を出そうとしてもその迷走の間に自分の生に掠ったと思われる時間はどれほどだったのか、いつも心のセンサーを立てるように言い聞かせている。

皆さんもあらゆる成功体験や能力評価はいったん捨てて、身体や自分と向き合って研究してみないか?リズムと宇宙がそこにはある。身体を制止したところから動かすものととらえず、直線的な価値評価や判断を一旦海や大地に還そう。
あなたは「それにおいてそれ」だからだ。それとは、よく似たデカルトの言い回しの中の「我」ほどつかみ続けられるものではない。「それ」という餅の一部である「我」はこびりついて取れないときもあるが、どうしても取れないものはあなたの生の階層にまで根付いたものなのかもしれない。以外にも「ただの成功体験」はそこまで下りては来られない。

さあ自信と成功を脱ぎ去って栄光への架け橋を爆破し、未知なる海に全裸で身を投げよう!!!

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