波に酔う

昔は夏になると、時々家族で海に行った。父の車に揺られ、20分ほどで海水浴場に着く。母はパラソルを立てた浜で休み、兄と僕はパラソルの下で水着になり、熱い砂浜を裸足で駆けていく。波打ち際にたどり着くと、足先を海につけて冷たさを楽しんだり、海水を掛け合ったりする。そうこうしていると父が浮き輪を持ってきて僕たちに渡すのだ。「沖に行くぞ」。浮き輪は2つあり、どちらにも長い紐がついている。僕たちは頭から浮き輪の穴に入り、父がその紐を腕にくくりつけて海に入るのだ。父はダイナミックに泳ぎ、僕は必至に足をバタバタさせてついていく。そのうちとっくに足がつかないくらい深いところに来ていて「もしスポッと浮き輪の穴から自分が抜け落ちたらどうしよう」と不安になるのだった。

遊泳区域を表すブイまでたどり着くと、僕らはそこでしばらく浮いたり泳いだりして遊んだ。真下に潜って砂を掴んでくる遊びとか、海藻取り競争とか。浜のほうからはたくさん人の声が聞こえるのに、反対側を見るとどこまでも海が続いている。ずっと遠くまで、ひたすら濃い青が広がっている。

沖の遊びで特に好きだったのは、なにもせずに浮き輪でぷかぷか浮くことだ。波が来るたびに体が揺れて、海藻やクラゲになった気持ちになる。ただひたすら、目いっぱいの青の中、ぷかぷか、ゆらゆらする。その感覚が本当に好きで、海から上がってもしばらく現実味がなく、体に波が染み込んでいるみたいだった。

ある時、そうして海で遊んだ帰り道。海水浴場から少し離れた岩場に立ち寄った。入り組んだ磯をサンダルで歩いていくと、イソギンチャクやヒトデがいて、そのすぐ傍で貝殻を拾った。中身は入っていない、くすんだ白い巻貝だった。栄螺より少し小さく、手のひらにすぽっと収まるサイズ。なんとなく気に入って持って帰り、きれいに洗って乾かしていたら、母親から「耳に当てると波の音がするよ」と言われた。半信半疑でそうしてみたところ、ほんとうにザザーンと波の音がする。
僕はとてもびっくりして、それからは貝を耳に当てるのが日課になった。夏が終わって秋になっても冬になっても、あの時波に浮いた感覚に戻りたいときはいつもその貝を耳に当てた。海の冷たさとか波の揺れとか、青い空とか入道雲とか。浮き輪のつるつるした手触りとかがっしりした父の肩とか。寄せては返す思い出たちが、貝殻にパックされているみたいだったのだ。

あれから大人になって、いつの間にか貝殻を耳に当てることなどしなくなった。今となっては、あれが本物の波の音じゃないことだって知っている。記憶の中の波に揺られることがなくなったかわりに、酒というほろ酔いになる手段を手に入れた。ひとりで酒瓶を傾けていると、次第に波に揺られたような気持ちになってくることがある。酔いが回るほど、感傷という海に浸りたくなってくる。これがなかなか、抜け出し難い。


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