元ぎゃるお先生,現る~最終話~
なぜか最終話を書き終えたと勘違いしたまま数か月が過ぎ,この前「最終話いつなんですか?」と聞かれて錯誤に気付きました。
どうも,お久しぶりです。
人間の知覚記憶表現叙述過程には誤りが入りやすいとはこのことでしょうか。勝手に連載を終わらせておりました(笑)
最近では趣旨実感本が発売3か月で3版となり,型講座も累計1000件申込みまであと数件というところまで来ており,その他制作も頑張りつつ,毎週指導にあたっている。そんな日々を過ごしています。
とまあ,私の近況はまた別の機会に書くとして,この連載もついに最終話となりました。最初の記事で書いたように,この連載は当初は書籍化する予定だったものが没になったため,noteで連載することになったという経緯を経たわけですが,個人的な感想としては,こうやって自分自身を文字化するのは無意味とも思いつつ意味はあったかなとも思いつつといったところでしょうか。ま,読んでくださった方の「何か」に「何らかの」響きがあったのであれば,そこにこの連載の大きな意義があると思っております。
では,とっとと参りましょうか。
それではどうぞ,ご照覧ください。
■うまく手を抜く
全力って疲れませんか。少なくとも私は、全力は疲れます。毎日数件入る指導。もちろん全部全力です。テンションを上げたり、下げたり、指摘する事項を同じ問題でも人によって変えたり、指導内容以外のことにも言及したり、メンタル面の相談を聞いたり……。指導は人と人との戦いですから、常に中身は変わりつつも、全力であることには変わりありません。
じゃあ、私が仕事に常に全力か。
それははっきり言ってNOです。
全力であるべき仕事は全力で、そうでなくても結果が同じであったり、コスパが見合わないものに対して全力投球はしません。理由はシンプル。疲れたくないから。
これは一見するとドライに見えるかもしれませんが、本当に全力でやるべき仕事とそうでない仕事というのは自ずと分かれてくると思うんですね。その際、何もかも全て自分の力で全力でやろうとしてみて下さい。
私は無理だなあ、パンクしちゃう。全部全力では体力が持ちません。
また、全部全力では結局のところ、生産性という意味で無駄が生じます。
水が入ったコップをイメージしてみて下さい。
水の量は努力量とそれに見合った結果です。
全力でやればやるほどコップの水は比例的に増えていきます。でも、どうでしょう。コップ一杯になった水は次第にこぼれていきます。
こぼれた水は無駄になってしまった水です。結局、何でもかんでも自分でできるわけではありません。できないことが存在するように、自分が最高のパフォーマンスをやり続けられる時間、量も限られています。
だったら、最初から全部全力でやる必要はないのではないでしょうか。上手に手を抜くことだって、立派なスキルです。もちろん、それで仕事ができませんでした~みたいなのはダメです。それはタダのサボタージュ。同じ結果が出るのであれば、手を抜いて達成したほうがよくないかという話です。
コップの限界までは頑張るが、それ以上は頑張らない。
頑張らないことも大事なんです。
私は個別指導でも同じように考えています
例えば、「○○について教えてください」といわれたとき、私自身が作業しないといけないものなのか、伝わらないものなのかをよく考えています。
その結果、私が調べても相談に来た子が調べても時間的にそこまで大差なく調べられるのであれば、「これに載ってるからまずは自分で調べてみ~」みたいな感じでその子に、ゆだねることもあります。
結局、全てにおいて力を入れる場面なのか、そうではないのかの峻別の連続なんじゃないでしょうか。なんでもかんでも全力でいけるほど体力があるわけではございません。というより、全力でいくべきタイミングに全力を出せるように、普段から調整しているというのが正確なところです。
全力でやっても、手を抜いても結果が同じなら、手を抜いた方が合理的ではないでしょうか。
身近な例をあげれば、印刷物。受験予備校業界はやたらと印刷物が多いんです。答案用紙、答案例、ゼミのレジュメ、宿題等々。
でも、これらの印刷って、何も私自身が全部やるべきことではないと思うんですね。職場にいてくれるスタッフさんに任せてもできますし、そもそもスタッフさんはその業務内容として印刷物も含まれているので過剰な要求ではない。
これを自分でずっとやるのは全くもって時間の無駄だと思いました。思いましたというのは、最初の頃は無意識的に自分でやっちゃってたんですね。でも、途中で、これって役割分担じゃね。何やってんだろ。みたいな。印刷製本→ホッチキス止めの作業だって、何個もやれば時間がかかる。そうであれば、自分でやるのではなく、本来の業務に含まれるスタッフさんと分業しよう、時には全部やってもらおう。なんか、当たり前のことを書いてますね。
印刷という私にとって身近な例をあげましたが、他に例をあげれば会議というやつ。
オフラインでの会議はかなりの確率で無駄が伴うと思うんですよね。
会議って、長いんで、一部の議題を除いては自分と関係のないことも話し合うじゃないですか。それをわざわざ聞く必要ってありますか。関係ない議題ほど聞く必要のないものってないと思うんです。あと、さらに根本的なことを言えば、それでこそ今はzoom会議にシフトしつつありますが、そもそも人がその場に集まる必要がある会議がどれほどあるのか。ぶっちゃけ、そんなに人が一つの場所に集まる必要ってなくないですか。私はどうしてもその必要性に思いを馳せることができない。
自分に関係のある議題だけオンライン会議できいてればよいのではないでしょうか。関係なくなったら、上司が残っていようがいまいが退出。それが一番楽です。
受験勉強も同じ。
六法全書全部なんてもってのほか、予備校の授業や大学院の授業で聞いた内容を全部完全に覚えなければならないわけではありません。
どうせ全部なんて出ません。まるで全部大事なような幻想に引っかかりがちですが、全くもってそんなことはありません。
受験勉強=どれだけ頑張れたか否かだ、という人はいます。確かにそのとおりです。ただ、それと同時に、どれだけのことに手を抜けたかも重要なファクターです。適度に手を抜かないとパンクしますって。受験勉強はそれだけ大変なんです。
恋愛だって同じだと思います。恋人に毎回全力の愛を注いでいたら疲れませんか(私だけですかね(笑))。
たまに料理を作る分にはいいんですが、毎回料理を作ってたら疲れます。
たまにはコンビニ飯でいいじゃないですか。セブンイレブンのコンビニ飯は私の大好物なのですが、本当にうまいですからね。ラーメンでいったら中華蕎麦 とみ田監修 豚ラーメン(豚骨醤油)とか、本当に病みつきレベルで美味しいですからね。その他にも、セブンイレブンのお惣菜は本当にうまい。変な話、堅苦しい高級中華以上にセブンイレブンの麻婆豆腐は美味しいです。
話がかなりそれそうなので、セブンイレブンの話はここまでにしますが、適度に手を抜くことで得られる幸せもあると思うのです。
なお、人に任せることで手を抜くという話をしましたが、あくまでも敬意をもって任せましょう。やってくれるのが当たり前と思ったら、それは人の不幸せの上に成り立つ自分の幸せですから、そんな幸せに意味はありません。
■スマホに頼る
スマホってすごくないですか。今さらながらですが。
だって、調べたいことはヤフー知恵袋しかり、一般のHPしかり、ネット広辞苑しかり、ウィキペディア然り、とにかくなんでもネット上には載っていて、スマホはそれ1台あれば何でも調べることができるツールとなっています。
だからこそ、私は自分で調べられることはスマホを使って自分で調べるべきだと思うんですね。例えば、人に何かを質問するときは、自分で調べてそれでもわからない部分を特定してから質問するべきだと思います。その方が質問の方向性が定まりませんし、質問を受ける側からしても「それくらい自分で調べろよ」というストレスがなくなる。何より、質問事項が特定されていない質問というのは議論がサンマンになりやすく、往々にして無駄な質疑応答を伴うことが多い。これって、質問者も応答者もどちらにとってもデメリットしかないと思うのです。
その上で、ネット上に転がっている情報は、当然その全てに信ぴょう性が認められるわけではありませんから、メディアリテラシーが大事になりますよね。
私であれば、まずは記載内容を疑いながら、スマホでネットを調べる。
↓
情報はいくらでも集められるので、集まった情報を取捨選択する。信用ならない情報は自分の感覚とウラがあるものは自分で切り捨てる。
↓
その後、それでもわからなかった部分をわかってそうな人に質問する。
というサイクルを経ます。
結局、無駄を省きたいというだけの話なのですが、ネットは割と情報収集のツールとして利用価値は高いと思いますよ。なんなら、私は司法試験の勉強をしている最中、よくウィキペディアを活用していたぐらいですから。
自分の無駄な時間を減らすためにも、スマホをうまく駆使することも考えてみてはいかがでしょうか。
■やらないことを決める
何かを始める際、これからやることを考えて、そのリストなんかを作る人がいると思いますが、私はその前にやらないことを必ず決めてしまいます。
それはなぜか。
シンプルな話、やりたいことが往々にしてやることにすり替わるからです。例えば、受験業界には様々な基本書、予備校のテキストが世の中にあふれています。私は大学受験生だったころ、よく千葉県津田沼市の丸善に参考書を買いにいていたのですが、一概に英語といっても、河合塾の〇〇先生の本、△△先生の本、□□先生の本といったように同じ予備校の中で複数の先生が別々の本を書かれていたり、もちろん、駿台や代ゼミ、東進ハイスクールといった競合他社も何冊も参考書を出しているわけです。そして、それらの帯には「受験生の〇%が読んでます! 必見!」とか、「これだけやっておけば大丈夫!」とかいうワードが書かれていることも相まって(今思えば大丈夫って何を根拠に言ってるんだとツッコミたくなりますが)、もともと買おうと思っていたもの以外もやりやたくなっちゃうんですよね。やるもの・買うものを決めていたはずが、いつしかその中に当初の予定外のやりたいものが入り込んでくる。これは書店だけの話ではありません。SNSで「合格者が読んでいた基本書ランキングベスト〇」とかいう記事を見つけたり、合格者や講師が「これはむっちゃいいよ」と発言しているのを見て、『これよさそうだなあ』と思い、現在読んでいるものがまだ終わっていないのに新しいものに手を広げてしまった。こんな経験をしたことがある受験生は少なくないはずです。
それがいい結果をもたらすのであればそれでもいいかもしれませんが、やりたいことが増えていき、それもやることに変わっていった末路は大体が消化不良やパンクというところでしょう。
人間は弱いから、周りの人がいいよって言っていたりすると、これもやっておくべきだと錯覚し、ついやることにすり替わってしまうと思うのです。
だからこそ、最初からやらないことを決めてそれだけは絶対にやらないと私は考えるようにしています。勉強の時も、「この本をやる」ではなくて「この本だけしかやらない。〇〇はやらない」という決め方をする。仕事の時も「この仕事をやる」ではなくて「この仕事以外はやらない。□□はやらない」と考える。根拠はよくわからないのですが、このように考えるようになってからは、勉強の成績も上がりましたし、何より、これ無駄なんじゃないかな~と思いながらも作業するという時間が減りました。
まあ、全く根拠がわからないし、うまく説明できないのですが、とりあえず、「あれもこれも」やりたくなっちゃう方は、やらないものリストを作ってそれだけは徹底することをオススメします。
6.終わりに
■勉強をする意味
ここまで、ポジティブシンキングについて書いてきました。もちろん、私が現在考えるシンキング方法は、これまでの私の人生経験全てによって形成されてきたわけですが、その大部分において「勉強」という、私が「好きではない」営みと隣り合わせだったわけです。結局、「だるいな~」と思っていた「勉強」とともに形成されたこの思考法。そこで、最後に「勉強」することについて、今、思うことを簡潔に話してみたいと思います。
まず、みなさんは勉強をする意味って考えたことありますか。
私はというと、そんなこと考えたこともなかったというのが素直なところです。
小さいころから塾に行っていたこともあってか、勉強自体は苦痛だし好きでもないけど、でも、やらないという選択肢はなかったかなあと思います。
なので、何のために勉強をするのでしょうかと聞かれた時は、最初は上手く言語化できませんでした。当たり前を言語化するって難しいですよね。
結論からいうと、①人生を色鮮やかにするための武器を手に入れるために勉強する、②勉強しなければ出会えない人と出会う、③周囲の人間から自分自身を正当に評価してもらう機会を増やすために勉強する、④自己肯定感を高めてハッピーになる方法を増やすという4つの理由に帰着するのかなと思います。
大前提として勉強なんかしなくたって生きることはできるはずです(厳密に言えば、赤ちゃんが言葉を覚えることも勉強なので、勉強していない人なんていないとは思いますが、大学受験のような勉強をしなくても生きていけるといった意味合いで使っています)。だから、私は勉強しなければ死んでしまうなんてことは言いません。毎日をただ無為に過ごすプー太郎だって、勉強することなく生きているわけです。
でも、他方で、勉強をすれば自分の人生の選択肢が広がります。抽象的な話でいえば、学歴を重視する会社があるのは事実ですから、偏差値の高い高校、大学に進学することは、そのような会社に受け入れられる可能性を増やすでしょう。司法試験でいえば、予備試験合格者は大手の法律事務所に優遇される傾向が顕著です。というのも、法科大学院修了生の場合は司法試験受験後の5月から就職活動が始まるのに対して、予備試験合格者の場合は司法試験の前年の11月の予備試験合格発表後ただちに就職活動がスタートするんですね。要は、大手事務所が予備試験合格者を対象に青田買いを始めるわけです。もちろん、その段階で内定が必ず決まるわけではありませんが、唾をつけていることは間違いないでしょう。
司法試験に無縁の方からすれば、なぜ同じ受験生なのに就活の時期にずれが生じるのか不思議に思う方もいらっしゃると思います。
でも、それは単純な話です。予備試験は約3%の合格率なので、他の受験生よりも類型的に学力が備わっていると見られ、彼らを欲しいと思う事務所が一定数存在するからなんですね(もちろん、学力と仕事のできは必ずしも比例しませんが、入り口の段階において学力という測定値は客観的な指標としては最も強いと言えるでしょう)。
話がややそれましたが、予備試験の合格に向けて勉強したからこそ、大手の事務所に入れる機会を拡充させることができるわけですよね。ですから、やっぱり、勉強というのは自分の可能性を広げる、人生を色鮮やかにするための武器なんだと思います。
あとはあれですかね、色鮮やかな人生という意味で私にとっては人の存在が欠かせないわけですが、勉強をしてきたことでしか出会えなかった人に出会うことができました。それこそ、恩師の谷山さんであったり、職場の同僚、これまで法律関係で仲良くなった友達、ゼミや現在の仕事で出会った教え子であったり。
「勉強だけできても人として魅力がなければ意味がない」っていう人がいますが、勉強も立派な魅力の一つだと思います。もちろん、勉強して結果を残して地位を得た後にその地位を振りかざす残念な人がいることは確かですが、そういう一部の例外を置いといて、勉強は魅力の一つです。個性でもありますよね。
なんでしょうか、『がり勉』という言葉の悪いイメージが先行しているのでしょう。
でも、そんなことはないということを伝えたいですね。
まあ、私の場合、普通じゃ面白くないなあと思っていた節があったから勉強を続けたというのもあります。
ギャル男だった頃、私は『周りのギャル・ギャル男とは同じにならない』という気持ちがあったので、センター街で友達と話している時も、予備校の刑法の本を読んでいたわけです。周りと差別化を図るという意味でも、勉強は必要なのだと思います。
このような意味において、就職先や自分の願望を実現する武器を手に入れるために、勉強することに意味があるのかなと思います。
あと、勉強を頑張っていたり、勉強で結果を出すと、周囲の人間から自分自身をよく見てもらえるという意味合いもあると私は思います。
ここでいう「よく」というのは、「プラス」という意味合いもありますが、それよりも強調したいのは、「詳しくシッカリ」見てもらえる機会が増えるということです。
学歴社会と切り捨てるつもりは毛頭ありませんが、それでも勉強を頑張っている人や結果を残している人は、それだけ周りから関心を寄せられます。
例えば、私は好きではありませんが、世の中にはFラン大学という言葉が存在します。偏差値に合格ラインが存在しない定員割れのため、志願者の全員が無条件で合格となる大学といった意味合いなようです。この言葉の存在自体が学歴で人を見る人間が一定程度存在していることを意味すると思います。残念かもしれませんが、これは事実です。
そういった目で人を見る人間が一定数いるからこそ、勉強して正当な評価を勝ち取ることに意味があるのだと思います。勉強して頑張って夢をつかみ取ることで、そういった偏見を持った人間も含めて自分の評価をしっかりとしてもらうのです。
最後に、勉強をしていて結果が出れば自己肯定感を高めることができます。小学校や中学校では必ずと言っていいほどテストが存在します。「うわ~だり~」とか思いんながらも勉強して、いい点数をとることができたらうれしくありませんでしたか。後ろでも書きますが、こういった成功体験があると、自分の自信が持ててハッピーな気分になると思います。
こういった、自己肯定感も生きていく上で大切だと思うんですよね。つらいことばっかりって思っちゃうと、生きる気力が失われます。でも、勉強をするとこういったハッピーが手に入ることがあるんです。
語彙力がないながら、私が考える勉強をすることの意味について4つ話してみました。勉強の意味はそれぞれにとって千差万別だと思います。だからこそ、その意味を見出せない方は、自分にとっての勉強の意味を見つけ出して欲しいと思います。
■勉強の成果を明示的に自覚させる
そうとはいっても、親が子どもに勉強することの意味を伝える際に、「勉強ってのは受験勉強だけじゃなく、社会勉強も含むから大事なんだぞ」なんて言ったって何の意味もありません。
だって、そんなの小さな子どもだって知っているからです。
彼らは自己の体験を言語化するだけの能力を未だ持ち合わせていないだけで、様々な経験が自分の成長にとって大事なことは体験しながら自覚しているでしょう。
子どもに対して勉強が大切なんだなと思わせるためには体験だけでは物足りません。
私が思うに、子どもに勉強の大切さを覚えてもらうためには、勉強が大事なんだということを、
明示的に自覚すること⇄自覚させること
といったサイクルを作ることだと思います。
何かを頑張ったとして、それが目に見える何らかの成果として現れ、現れていることを教えてもらえないと、結局のところ勉強のおかげで手に入れた結果なのか否かがわからないと思うんですよね。
だからこそ、
「頑張ったね。これまで勉強してきた結果が出たんだよ。おめでとう」
みたいな、勉強と結果が結び付いていることを自覚させるような言葉をセレクトして褒めてあげるのがいいのかなと思います。ただ「よかったね」とか「おめでとう」だと、言われたときの満足感だけで止まってしまう子どももいると思うんですよね。
これまで頑張ってきたことと、頑張ってきたことで結果が出たことを自覚させることができる言葉。
この言葉を聴くだけで、勉強に意味があるんだと思えるはずです。
まあ、この言葉を誰かから投げかけてもらうためには本人が勉強を頑張らなければならないわけですが、それは別のところで書くとして、勉強を頑張ってほしい誰かがいるのであれば、このマジカルワードを投げかけるようにして勉強の成果を明示的に自覚させましょう。
私自身、小さいころに学校で学級委員を頑張ったり、授業参観で発表を頑張ったり、サッカーの試合で頑張った時に、両親にそのように褒められた成功体験によって机の上の勉強も含めて、社会勉強の大切さを自覚することができました。
「頑張ったら、褒めてもらえるし、嬉しいな」
この感覚をどれだけ自覚できるか否かが勉強する意味を知る上では大事だと思います。
■勉強をする意味を見つける方法
勉強をする意味を見つけることって、実は簡単なのって知ってましたか。
それは2つの相反する体験をすることなのです。
まず1つ目。それは勉強することで結果を残し、成功体験をすることです。これは割と単純な話なのですが、結果が残せれば勉強が楽しくなるのかなと思います。もちろん、何を結果と捉えるか、将来の夢を結果と捉えるか、それとも直近の目標を結果と捉えるかにもよりますが、自分が設定した結果を達成できればそれは楽しい、あるいは嬉しいものです。勉強したって意味がないと思っている方の多くは、多分ですが、失敗体験しかしたことがないのだと思います。それだと、つまらないですからね。なので、成功体験をすることで勉強の達成感やその意味を知ることができるのだと思います。
では、2つ目は何か。それは一度勉強しないことで失敗して挫折する経験をすることです。
挫折経験の種類はなんでもいいです。
赤点をとって恥をかいた。
自分の社会経験が足りなくて、飲み会や食事の場で全く話についていけなかった。
塾のテストで最下位をとった。等々。
成功体験を積み重ねれば勉強っていいなあっておいしい[U1] 気持ちをかみしめて勉強し続けることは可能なのですが、成功だけではいつか空虚感を覚えてしまう可能性があります。私は小さいころ「ファイナルファンタジー」というRPGにはまっていたのですが、スイスイエンディングまで進んでしまうと、「張り合いがない」と思ってしまい「おもんな」って思っちゃうことがあったんですね。でも、強いボスキャラや難しいイベントが発生して失敗すると、「なにくそ!」と思ってレベル上げを頑張るわけです。そして、クリアすると「よっしゃあ」とうれしい気持ちになる。例えになっているのかわかりませんが、成功だけではいつか空虚感を覚えてしまうんです。
だからこそ、失敗体験をするのも勉強することの意味探しには役立ちます。
ただ、ここが難しいんですが、失敗体験は時に人を腐らせるんですよね。超絶ストイックな方は失敗だけでも這い上がれるのかもしれません。でも、たいていの人間は失敗続きだと心が折れます。
だからこそ、成功体験と失敗体験という相反する経験をバランスよく経験するのが大事なのかなあと思います。
私が小学校の頃に通っていた塾には本当に頭のいい人が多くて何度も悪い順位、自分では納得がいかない順位を取っていました。だからこそ頑張れたし、勉強の意味にも自分なりに気付けました。そしてたまに勝ちたい奴に勝つとうれしかった。
勉強して頑張れば、クラスメートに勝てる。勉強はそのために必要だ。当時はちっさかったので、これ以上何か考えることはなかったと思います。ただの負けず嫌いです。でも、今思えば、こういった経験があったからこそ、勉強することで目先の目標をまずは達成する力を得ることができるし、仮に手に入らなかったとしても自分に言い訳をしないで胸を張ることができるようになるといった勉強の意味を、獲得することができるようになったのだと思います。
というわけで、相反する2つの経験をすることがこそが私の考える勉強をする意味を見つける方法でした。
■結果が出ないとやる気は失せる
先ほど話した通り、失敗ばかりでは絶対に勉強が嫌いになって、やらなくなります。
例えば学校の期末試験でもいいですし、予備試験・司法試験でもいいですし、TOEICでもいいです。すごい頑張ったのに、結果が出ずに凹んでしまったことはありませんか。
そして、凹んだ回数が多かったり、凹んだダメージが大きすぎたりすると勉強のやる気がなくなり、やめてしまう。
他方、勉強した結果、自分が求めていた結果が出た方はどうでしょう。勉強を好きじゃない方であっても、一度思い通りの結果が出ればそのままの勢いで勉強って続けられたりしたのではないでしょうか。
人間って単純で、勉強に関しては結果が出れば続く、結果が出なければやる気がなくなって継続しなくなる人が多いと思います。これはスポーツと同じですね。私はサッカーをやっていましたが、最初は苦手だなあとか、うまくいかないなあと思っていても、一回シュートが決まったり試合に勝って面白さを感じたりモチベーションが上がると苦手意識が漂白されて継続できるようになります。結局、勉強に対するやる気がなくなって継続できなくなった人っていうのは、とりあえず一生懸命勉強を頑張ってみたけど、求めていた点数や結果が出ない経験が増えてきてモチベーションが下がって勉強をしなくなったという負の連鎖にからめとられてしまった人のように思えます。
だからこそ、勉強して結果を出す方法論を学び、結果を出す楽しみ方を身に付けておかなければなりません。そして、そのためには、努力の仕方を身に付け、努力を行うことが必要になるのです。
■努力のやり方
勉強しない人ほど「努力は難しい」、「めんどくさい」って愚痴る傾向があるように思うのですが、「努力」って意外と簡単・お手頃なところからやることができるって知ってましたか。
努力が難しいと思う原因として大きいと思うのが、例えば「司法試験に合格した人はすごい努力をしている」みたいな、何かすごい結果を出した人は努力をしているみたいな言説が存在することだと思うんですよね。すごい結果を出すこと=努力みたいなイメージがどうしても湧いてしまう。
でも、私が思う努力はそんなに崇高なものではありません。「努力」をする上で大切なのは、手軽なゴールを設定することなんです。最初から難しい目標を達成しようとするんじゃなくて、自分の80%くらいの力で達成できる目標を設定するんですね。だって、目標を高く設定しすぎると挫折するのが目に見えちゃうじゃないですか。そうすると、目標までの道のりが長すぎて、努力もできなく、いや、やりたくなくなる。自分と目標との距離をはかってあきらめてしまうんです。
ということで、努力したい人は、自分で達成できる、しかも、80%の力で無理なく達成できる目標を設定しましょう。
いつもより1時間多く勉強するためには、今日はいつもより1時間少なめに寝るでもいいんです。これ、立派な目標じゃないですか。達成したら、それは努力したから達成したことになると私は思います。努力のやり方は人によって違いますから、他人から見て小さく見える努力でも、本人からすれば大きな努力であることなんてザラにあります。ここでも他人は気にする必要はないんです。日々の目標を達成し、自分の努力の幅を広げていきましょう。
また、努力を積み重ねるための目標はいっぱい設定していいんです。要は、ギャルゲーなんです。努力って。
妹から攻略するための目標を考える。そして、それに向けて努力する。目標を達成したら、自分のした努力をかみしめる。そして、次はこのキャラ……というふうに進んでいく。たくさん目標を掲げ、一つひとつ制していくことで、自分がした努力の数が増えていきます。
結局、努力するためには、①「努力って、意外に簡単にできるんだ」ということを実感することと、②努力は努力した回数によってできる幅が広がることを知って経験すること。この2つを経験することが、努力をできるようになる第一歩だと思いますので、とっとと手軽にできる目標を設定して①②を経験しましょう。
■勉強は嫌いでいい
本当によく聞かれます。
「司法試験に合格するくらいなんだから勉強好きなんでしょ。どうしてそんなに勉強が好きなの」
いろいろと論理が飛躍しているのですが、それはさておき、勉強に関して言えば、はっきり言って嫌いです。
こんなこと言うと、予備校講師のくせにうんちゃらかんちゃら……という具合に様々な方に怒られるかもしれませんが、嫌いなもんは仕方ない。何より覚えるのが苦手な私からすると机の上の勉強は好きになれない。
昨日勉強した内容を次の日には忘れている。
これ、受験経験ある方はわかるんじゃないかなあ。知識って不思議なことに、昨日の夕飯をすぐに思い出せないのと同じくらいに、いや、それ以上に秒で抜けていくんですよね。司法試験の短答式試験の勉強なんて、あれは地獄を見ているようだった。
本当に苦痛。
でも、そんな私が言うんだから間違いありません。勉強は嫌いでもいいんです。勉強をするか否かは嫌いか否かと比例的に関係するわけではないと思います。勉強する意味さえ自覚できれば、例えば私の場合司法試験に合格することで恩師や家族、親族、友達に報いることができるという勉強の意味さえ自覚することができれば、勉強は続けることができるものだと思います。
だからこそ、勉強が嫌いだから勉強をしないというベクトルには傾いて欲しくないです。勉強することで自信であったり、進路の幅を拡張させることができたり、勉強することで出会える仲間であったり、様々な可能性を勉強は秘めています。
勉強によって得られるものは点数という数字や結果だけではありません。無形的な何かが勉強の先にはあるんです。それを手に入れるために勉強の好き嫌いは関係ありません。勉強嫌い、そんなの上等です。
■本当の、終わりに
ここまでいろいろなことを書かせていただきました。私の過去及び現在について、様々な考え方。ギャル男についても少々書かせていただきました。こんなに自分の経験や主義思想を文字に起こしたことはこれまでなかったので、とりとめのない内容になってしまっているかもしれません。
私は、「夢」を持ち、その「夢」に向かって「責任」をもって「努力」して、いつ何時も「楽しむ」ことを忘れない。こう言った生き方をこれまでも、そして、これからもしていこうと考えています。
この抽象的ではありますが、私を基礎づけているこの考え方は、司法試験の受験勉強にも非常に良い影響を与え、また、影響を受けました。
大げさだなと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、司法試験の受験は人生を左右する大きな、本当に大きなイベントでしたし、受講生の人生を背負いながら指導をする立場になり、様々なバックグラウンドの方がいることを目の当たりにしている今は、よりその思いが強くなっています。
だからこそ、それらを通じて培った私の考え方から伝えられることがあるのではないか。そう思って、この本を書いてみました。生き方、考え方の何か一つでも参考にして、皆様が羽ばたく一助となれればいいなと思います。人生楽しんだもん勝ちです。この本を通じて人生を楽しめるように、何かに頑張れるようになって頂けたのであれば、巡り巡って私にとってもハッピーになるんだろうなと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
どうせ1回きりの人生、楽しもう。
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