ビスケット・フランケンシュタイン/日日日

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読了日2019/12/19
「第九回センス・オブ・ジェンダー賞大賞受賞作」

1999年。
ノストラダムスの予言のとおり、人類は滅亡するということはなかった。
だが奇異なる病が少女たちを襲う。
体の一部が別な物質……たとえば、キャンディ、チョコレート、ビスケットなどのように名づけられたそれに置き換わる。
だが人体はそうした異常に耐えきれず死んでしまう。

そんな病に犯され死んだ少女たちの部位が集まって完成した、フランケンシュタインの少女がいた。

ビスケット・フランケンシュタイン

ビスケ、と愛する母となってくれるはずだった人間から与えられた名を胸に抱き、彼女は生きていく。

滅亡を定められた人間たちを、彼女は心から愛していたから。

思いがけず涙腺がゆるむ。
思いがけずとは失礼だが……。

ビスケが生きていく目的はひとつ。
人間を愛しているから。

こんなに美しい生きていく理由があるだろうか。
ビスケの元となった少女たちが、まだ思春期より前の純真無垢な心を持った少女たちだったからこそ、美しさだけを秘めて生きてきたのだろう。

美しさだけでは、人は生きてはいけないのだが。
ビスケは生きていた。
単純な事実と残酷な現実を述べれば、ビスケは人ではないから、美しさだけで生きてこられた。

けれど私たちは本当に、美しさだけでは生きていけないのだろうか。

生きていけないのだろうね。

環境問題を訴える少女がバッシングされつづけるように、
わが身を襲った男性からの暴力による不幸を民事裁判によってようやく勝利をつかめるように、

どれだけ本人にとっての美しさを叫びつづけても、自分の体内で生成された言葉を飲み込んでも私たちは満足できないものらしいから。

美しさはお腹を満たしてはくれない。
心が満たされるだけで生きていけたらよかったのに。
私たちはどうしても、他者とのかかわり合いを経ずには生きられないから。

他人との交流によってしか自分を確立する手段がない以上、私たちは他者からのバッシングや暴力に怯えながら、美しささえひた隠しにして生きないといけない。
体は満足させられないけど、心は満たしてくれる美しささえ隠して生きて、体より先に心が死んで、虚ろなまま生きていくしかない。

ビスケが出会ったアゲハは、典型的な「私たち」だったように思う。
他者からの批判やバッシングによって、病に犯されていた体より先に心が死んでいた。
けれどアゲハは、ビスケによって生かされていた。

ああ、他人との交流は自分の確立のため以外にも理由があるのかと。
アゲハはビスケとの交流によって、ビスケの心の中でいつまでも生き続けていた。
ビスケが特別不老不死だから、というのもあるけれど、私たちは心の中に何人もの人々を生かしているじゃないかと。

交流によって得た他人の人格を心の中で生かすことで、私たちは今は亡き人とでも心の中で会うことができる。

可能な限り、ビスケのように多くの愛した人間たちを、体の中、心の中で生かしていきたいように思う。

もしかするとこれは、心の中で行なう新たな生命の誕生にも等しい行為なのではと考えてしまうのは、現状、私に人間の恋人がいないからかしら←

なんて、美しくは生きられない私だけど。
他人の心の中で生きる、他人との交流によって生まれたその人の心の中の私が美しく生きていてくれたら、いいなあって思える。

生きていてよかったと、きっと思える。

2023/08/11追記
シミルボンにてピックアップされた記事です

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