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迷人伝

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記事一覧

迷人伝 その1

 中島(なかじま)紀昌(のりまさ)が『名人伝』と出会ったのは、中学二年生の時だった。本格的な夏が到来する前ではあったが、長袖の制服が暑苦しく感じる、なんとも中途半端な季節のことである。

 出会ったという言い方は、少し平凡過ぎるかもしれない。なぜなら国語の教科書に載っていたこの短い小説によって、紀昌の人生は大きく変貌し、大きく捻じ曲げられてしまったからだ。ささいな出会いが人を大きく変えるきっかけに

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迷人伝 その2

 次の日、食卓に現れた紀昌の姿を見て、母親は卒倒しそうになった。それもそのはずだ。自分の息子が変な格好をしているのである。制服はちゃんと着ているのに、なぜか小学校の体育で使っていた赤白帽をかぶっている。しかもそのツバには変なものがぶら下がっていた。母親は自分の息子の気が触れたのではないかと当惑したわけだが、逆に母親のほうの気が触れそうになった。

 なんとか気を確かに持って、母親は努めて平静に言う

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迷人伝 その3

 通学時間も修業の場だった。紀昌は歩きながら、目の前をゆらゆら揺れる玉をジッと見つめていた。昨日の夜よりも心持ち長い時間瞬きせずにいられるような気がした。朝のほうが目が疲れていないためかもしれないし、少なからず昨日の修業の成果が出始めているのかもしれない。そのことに喜んだ紀昌は、薄気味悪い笑みをこぼしていた。

 紀昌の奇妙な姿を見た同じ学校の生徒たちは、皆一様に度肝を抜かれた。真夜中に突如現れた

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迷人伝 その4

 昼休み、紀昌は担任から呼び出しを食らっていた。今朝のことで何かしらのお説教があることは容易に想像がつく。だが、紀昌には自分が悪いことをしたという自覚が一切ない。どちらかと言えば、自分は被害者である。こっちのほうが文句の一つでも言ってやりたい思いだった。

 相手は教師である。学校という狭い世界では、教師は神よりも偉い、ということになっている。教師が「ダメだ」と言えば、それがどんなに世界平和のため

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迷人伝 その5

 それから紀昌は、授業中であろうと平気で瞬き帽子をかぶっている。

 最初はからかっていたクラスメイトたちも、次第に紀昌に関与することを避けるようになった。誰もが紀昌のことが心底気持ち悪かったのだ。想像の範囲内の気持ち悪さであれば、それはからかいやいじめの対象になるが、度が過ぎると関わりたくないという防衛本能が働く。誰もが得体の知れない恐怖を紀昌から感じ取っていたのである。

 教師も何も言わなく

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迷人伝 その6

 紀昌が修業を開始してから、一年と八カ月が経過した。

 一四歳から一五歳になる思春期の一年八カ月は、身体的にも精神的大きな成長を促す。しかし、紀昌ほどあらゆる面で変貌を遂げた者はいないかもしれない。

 中学三年生になった紀昌は、一段と誰からも怖れられる存在になっていた。紀昌に話しかける人は誰もいないのは当然のことながら、紀昌が廊下を歩いていると、皆端に移動して道を譲った。この修業を開始する前は

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迷人伝 その7

 紀昌は試験に合格したわけだが、中学三年生の紀昌にとっては高校受験というもう一つの試験が間近に迫っていた。紀昌は高校に行くことなど露ほども考えていなかったのだが、母親の強い説得もあって、渋々願書を提出していた(願書を書いたのも送付したのも母親である)。

 受験を了承させたはいいが、母親の心配は紀昌の格好にあった。あの赤白帽をかぶったまま、そして伸びに伸びた汚い長髪のまま試験会場に行くことだけは避

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迷人伝 その8

 紀昌は無事試験に合格したわけであるが、この事件が合否に影響しなかったのは、試験官である教師のプライドによるものだったかもしれない。受験生に睨まれただけで倒れこんでしまうという失態を、彼は報告できなかったに違いない。しかしながら、この事件は伝説となって広まってしまった。同じ教室で試験を受けていた他の受験生たちが、自分の友達や知り合いに言い伝えたからである。

 例年よりも遅れて開花した桜が儚く短い

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迷人伝 その9

 平穏な時間が緩やかに流れていき、早くも三年近い年月が流れ去っていった。

 三年という時間には、何かしらの魔力が備わっている。三年あればどんなこともできそうに思えるし、新しい自分に生まれ変われそうな錯覚を起こさせる。実際には何も成し遂げられずに過ぎ去っていくことが多いのだが、紀昌は例外だった。この三年間で紀昌が体得した能力は、まさに目を見張るほどだったのである。

 紀昌はふと夜空を眺めた。高校

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迷人伝 その10

 暖かい春の空気が東からやってきた頃、一人の奇態な青年が西から大都会にやってきた。

 東京にはじめて降り立った紀昌は、あまりものビルの多さに面食らった。紀昌の目には実際よりも一〇倍以上高くそびえ立っているように見える。ビル酔いというものがあるのかどうか知らないが、まさに紀昌は巨大なビル群に囲まれて、吐きそうなくらいの目眩に襲われたのだ。

 なんとか下宿先に到着した紀昌だったが、早くも東京に来た

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迷人伝 その11(完結)

 紀昌がヒマラヤに旅立ってから九年の年月が経過した。その間、地球が太陽の周りを九回もまわり、地球自らも三二八七回転した。移りゆく季節は再び訪れるが、人にとって同じ時間は二度と訪れることはない。

 かつての同級生たちは、各々の人生を歩んでいた。社会人として働き盛りの時期を迎えていた者もいれば、早々に結婚をしてしまった者もいる。すでに親になった者も少なくない。彼らの記憶の中では、紀昌は笑いのネタに成

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