迷人伝 その6

 紀昌が修業を開始してから、一年と八カ月が経過した。

 一四歳から一五歳になる思春期の一年八カ月は、身体的にも精神的大きな成長を促す。しかし、紀昌ほどあらゆる面で変貌を遂げた者はいないかもしれない。

 中学三年生になった紀昌は、一段と誰からも怖れられる存在になっていた。紀昌に話しかける人は誰もいないのは当然のことながら、紀昌が廊下を歩いていると、皆端に移動して道を譲った。この修業を開始する前は、誰からも一目置かれる存在になれると確信していたわけだが、現在の紀昌は別の意味で皆の注目を一心に集めていた。

 紀昌の凄みは、日に日に増すばかりだ。まず姿形が異様である。いや、異様という言葉を通り越して、別の世界の住民のようである。決して瞬き帽子を脱がないと誓った紀昌は、あれから一度も髪を切ってもいなければ、ちゃんとした洗髪もしていない。帽子からはみ出している部分はお湯に浸かったりできるのだろうが、頭皮の部分は常に帽子の中に収まっている。そのため視覚的にも嗅覚的にも酷いことになっていた。それでいて頭には赤を表にした赤白帽をかぶっているのだから、もはや人間の域ではない。地獄からやってきた鬼だと言われれば、思わず信じてしまいそうなくらい病的な容貌に朽ち果てていた。人間というよりも物の怪の類に近い。雑踏の中に棲む孤独な陰獣のようでもあった。

 また、眼力も人間の域を超越していた。怖くて誰も紀昌の目を見ようとはしなかっただけでなく、冗談で笑い飛ばせない噂が真しやかに囁かれていた。例えば、紀昌が見るだけで植物を腐らせてしまうという噂もあれば、紀昌に三秒見つめられるだけで魂を吸い取られてしまうといった悪魔じみたことも言われていた。女子たちの間では、紀昌の目に見つめられるくらいなら、強姦にあったほうがましだと吹聴される始末である。それがまわりまわって、紀昌の目に凝視されたら鬼の子を妊娠させられるとまで語られていた。

 紀昌はもうほとんど瞬きをしないようになっていた。一日中瞬きをしない日もあったくらいである。ある晩、母親がこっそり紀昌の寝顔を盗み見たところ、息子の目は大きく見開いていた。その瞳は暗闇の中で異様なほど艶々とした輝きを放っていた。寝ているはずの息子に見つめられた母親は、得体の知れない何かがゾッと背筋に襲ってきたような身の竦む思いに膝をガクガクと震わせた。自分の子どもであるにも関わらず、その姿に心臓が止まりそうなほど胸の鼓動が激しく脈打った。その晩は眠ることができなかったほど神経は昂ぶり、手と足の震えは一晩たっても終息しなかった。

『名人伝』の主人公は、二年で完全に瞼の筋肉が使用法を忘れてしまったというが、紀昌もその境地に近づいていたのだ。

「ぼちぼち次の修業に移ってもよさそうやな」

 紀昌はそう考えていた。残念ながら、目に蜘蛛の巣が張るようなことはなかったが、もう充分ではないか。自分ではそう思っているのだが、客観的な判断材料が欲しいところである。紀昌は自分に厳しい試験を課すことにした。

 試験を実施するためには、花火を購入しなければいけない。ところが、年末年始の浮かれた空気が過ぎ去り、西高東低の気圧配置が頑固に居座っているこの季節、近所のコンビニを数店まわってみても花火は置いてない。仕方なく紀昌は花火の問屋にまで足を伸ばすはめになった。そこで紀昌は、普通の線香花火と普通の手持ち花火、そして普通のロケット花火をようやく手に入れることができた。『名人伝』では、火の粉が目に飛び入ろうとも決して瞬きをしなくなったという。もはや学校では使わなくなった中学二年生の国語の教科書には、そう書かれていた。紀昌も同じような試みをしてみようと画策したのだ。

 まずは線香花火である。これは試験の準備体操のような位置づけだった。紀昌は線香花火に火をつけて、文字通り目の前にかざした。最初のうち激しく火花を散らした線香花火は、徐々にその勢いを鈍くさせ、何かに耐え忍ぶように力を振り絞り、最後は力尽きたように虚しく火の玉を地面に落とした。実際に目の中に火の粉が入ってくることはなかったが、目の前で起きた線香花火の起承転結を一切瞬きすることなくつぶさに見届けることができた。

 次は手持ち花火に挑戦である。これが第一の試験でもある。手持ち花火を自分の顔に向けてみて、瞬きをしなければ合格なのである。数本セットの手持ち花火の中から一本取り出し、どのくらいの炎が飛び出すのかをテストしてみる。思っていた以上に、花火の威力は強かったが、紀昌には「これならいけそうや」と感じられた。

 もう一本手持ち花火を取り出し、火をつける。今度は自分の顔に花火を向けてみた。最初はできる限り腕を伸ばして遠くから花火を噴射させる。それから少しずつ腕を曲げ、慎重に花火を自分の顔に近づけていった。紀昌の目の前には、黄色と橙色の中間のような火花が激しく入り乱れ、自分の目に向かって一斉攻撃を繰り広げる。しかし、紀昌の瞼はピクリとも動かなかった。火の粉が目の中に入ってくるたびに、“熱い”という感覚はあるのだが、紀昌の瞼が閉じることは断じてなかった。つまり、第一の試験に合格したのである。

 最後はロケット花火だ。あろうことか、紀昌はロケット花火を自分の顔に向けて飛ばすという荒試験に挑もうと思い立ったのである。もし向かってくるロケット花火に対して、瞬きせずに見続けることができたなら、もはや達人の域であると紀昌は考えていた。それは『名人伝』で言うところの、目の前に突然現れる灰(はい)神楽(かぐら)(火の気のある灰の中にお湯をこぼした時に吹き上がる灰の煙)に目をパチつかせないことよりも難しいだろう。

 このロケット花火の試験に合格すれば、確実に次の修業に移ってもいいという自信を得られるはずだと紀昌は信じていたのだ。

 ロケット花火を土の中に埋め、斜めになるように固定する。ロケット花火と自分の距離を一メートルほど取る。微妙に角度を調整してから、紀昌は気合いと共に火をつける。導火線はジリジリと音を立てながら、ロケット花火本体に近づいていく。紀昌は大急ぎで所定の位置まで走り、そこでロケット花火の発射を待った。

 たった数秒のことではあるが、紀昌には長い時間のように感じられた。導火線につけられた火種が花火本体に吸い込まれるところまでじっくり観察することができたのだ。これも修業の成果の一つかもしれない。そう思い巡らすほど、紀昌には余裕があったということだ。

 その数秒後、ロケット花火は「ピュウ〜」という甲高い音を引き連れて、紀昌のほうに向かってきた。しかしながら、ロケット花火はすぐに方向を変えてしまい、紀昌から大きく離れた方向に去って行ってしまった。もちろん紀昌は、その間瞼をパチつかせなかった。

「これを合格と言ってもいいんやろか?」

 紀昌は納得できなかった。誰かに判定してもらう類の試験ではない。自分で納得できるかどうかが、この試験の合否を決定づける。そういう意味では、これだけではとても合格という判を押すことはできない。

 紀昌はもう一度挑戦することにした。今度はロケット花火からの距離を五〇センチまで近づけてみることにした。もう一本ロケット花火を取り出して、先程と同じようにセットする。ライターで火をつけると、たった五〇センチしか離れていない場所で身構えた。

 紀昌は意識を集中させてロケット花火を凝視する。発射されたロケット花火は、回転しながら紀昌に向かってきた。まるで水面にできた波紋のように、まわりの空気に綺麗な環を作りながら、ロケット花火はまっすぐ紀昌の顔に近づいてくる。ところが、極度に神経を尖らせていた紀昌には、ロケット花火の動きが止まって見えるほど鈍足に感じられた。

 ロケット花火が紀昌にぶつかりそうになった瞬間、紀昌はとっさに三センチほど顔を右に移動させた。ロケット花火は、紀昌の頬をわずかにかすめて、真後ろに飛び去って行った。

 紀昌は瞬きをしなかった。完璧な合格だった。もし合否を判定する審判員が十人いれば、全員が合格の札を上げるほど自他共に認めるような合格だった。紀昌は、無事試験に合格したのと同時に、揺るぎない自信も手に入れることができた。自分に特技がなく、自己嫌悪に陥っていた昔の紀昌は、もう存在しない。ここに生命力に溢れた一人の自信家が誕生したのである。

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