迷人伝 その7

 紀昌は試験に合格したわけだが、中学三年生の紀昌にとっては高校受験というもう一つの試験が間近に迫っていた。紀昌は高校に行くことなど露ほども考えていなかったのだが、母親の強い説得もあって、渋々願書を提出していた(願書を書いたのも送付したのも母親である)。

 受験を了承させたはいいが、母親の心配は紀昌の格好にあった。あの赤白帽をかぶったまま、そして伸びに伸びた汚い長髪のまま試験会場に行くことだけは避けてほしかった。あんな姿を見れば、どんなに試験の点数が良くても(そんなことはないのだが)、不合格になってしまいそうに思われる。

 しかし、その母親の心配は突如として解消されることになる。なんと紀昌はあの変ちきな赤白帽を脱ぎ、髪の毛を切ったのである。紀昌の急な変貌に最初は喜んだ母親だったが、次第に得体の知れない不安に襲われてきた。不安の根拠は、「何を考えているのか、さっぱりわからない」ということなのだろう。挨拶もろくにせず、何で生計を立てているかさっぱりわからない隣人に抱くような不安である。受験のために髪を切ったわけではないことだけは一目瞭然だった。

 紀昌は丸坊主になっていた。ただ邪魔くさいから坊主にしただけなのであるが、母親には不気味にしか感じられなかった。それに今度はなぜか左手を執拗に凝視している。紀昌の視線の先にある左手の中指には鼻くそのようなものが付いていたのだ。汚らしいものをジッと見つめる息子の姿は、母親の不安を幾層倍にも膨らませた。

 当の紀昌は、もうすでに次の修業に移っていた。今度は「小を視ること大の如く、微(び)を見ること著(ちょ)の如く」、すなわち小さなものを見ても大きなもののように見えるための修業である。『名人伝』では、自分の髪の毛にシラミを繋いで、それを終日ジッと睨んでいた。しかし、今の時代、そう簡単にシラミを見つけることはできない。また、前回の修業と同じように紐に結んだ何かを見続けるのも、あまり変化がなくて面白くない。玉が小さくなっただけで修業の内容が変わらないのでは、さすがの紀昌にも飽きがきてしまう。紀昌の修業にとって、飽きこそが最大の敵なのである。

 そう考えた紀昌は、簡単に同様の修業ができる方法を思いついた。自分の指にペンか何かで印を付ければいいのだ。これほど簡単な方法は、他に見当たらない。単純であればあるほど、修業は効果的なように感じられたのは前の修業と同じである。

 新しい修業を始めてまだ一日も経過していないにも関わらず、紀昌は指に書いた小さな点が少しずつ大きくなっているかのように感じた。『名人伝』には、主人公の紀昌(きしょう)がシラミをほんの少し大きく見えるようになったのは、一〇日過ぎた頃だと書かれている。しかし紀昌はたった数時間だった。確固たる自信を体得した紀昌は、「俺は天才ちゃうか」と自惚れた。

 ところが、それは単なる思い過ごしだった。指の黒点をジッと睨んでいるうちに、勝手に左腕が曲がってきていたのだ。無意識のうちに自分で近づけていたため、紀昌には大きくなったように感じられたわけである。

「なるほど、そういう弊害もあるんか」と思ったが、別に修業の方法を変えるほどでもないと紀昌は開き直る。要は、腕の位置が変わらないようにすればいいのだ。それも修業の一つだと思えば、楽しみにすらなる。もしどうしようもなくなれば、その時新しい方法を考えればいい。一度決めたことをたった数時間で変更するのも、紀昌の癇に障ったに違いない。

 結局、紀昌は左手の中指をジッと睨む修業を継続することにした。そんなことを知らない母親は、自分の息子が空漠たる闇の中に住む病的な狂者にしか見えなかった。もはや自分のお腹から産まれてきた人間だとは信じられなくなっていた。

 紀昌の変貌は、またもやクラスメイトに衝撃を与えた。いきなり丸坊主で現れたのである。紀昌の坊主姿は、決しておしゃれボウズと呼ばれるものではない。だからと言って、修業僧みたいな穏やかさもない。その姿は地球に侵略してきた宇宙人のようだった。異様に目が大きく、げっそりと頬がこけており、餓えた痩せ犬のような凄みを醸し出していた。さらに丸坊主になったために、頭が不思議な形をしていることも顕になった。頭のてっぺんが尖っていたのだ。クラスで一番背が低いにもかかわらず、頭が大きな紀昌は、まさに宇宙人だった。紀昌のことを知らない誰かに、「あいつは宇宙人なんや」と説明すれば、百人中百人が信じるに違いない。

 その一方で、教師たちは喜んだ。なぜか左手を前に伸ばして変なポーズをしているが、それはあの変な玉をぶら下げた赤白帽よりは断然ましである。坊主頭は異様ではあったが、別に校則に反しているわけでもない。注意をしなければいけないのに注意できないという罪悪感から開放されたのだ。多くの教師は胸を撫で下ろしたわけであるが、早く紀昌が卒業してくれたらいいのにという思いに変わりはなかった。

 瞬き帽子を脱ぎはしたが、紀昌の行動は何も変わっていない。授業中であろうと休み時間であろうと、紀昌はジッと自分の左指ばかりを凝視している。クラスメイトたちは紀昌を見たくなかったが、自然と視線がいってしまう。怖いもの見たさもあり、紀昌が何をしているのか気になって仕方がないのだ。そのうち誰かが紀昌の左手の中指に何か鼻くそのようなものがついていることに気づいた。

 その噂は瞬く間にクラス中に広まるが、誰も紀昌本人に向かって言うことはできない。紀昌はクラスメイトから怖れられていたのだから当然である。しかし、本人のいない場所では、紀昌のアダ名は“鼻くそ星人”と嘲笑されるようになった。

 鼻くそ星人である紀昌は、無事高校の受験に合格した。試験中もずっと左手を見続けていたにも関わらず、紀昌は合格してしまったのである。それもこれも、彼の受験した高校が地域一のバカ高校だったからだ。名前さえ書けたら合格するとも言われていた。それが真か嘘かわからないが、選択問題を適当に答えただけの紀昌ですら合格できたのだから、ある程度真実に近いのだろう。

 それほどどうでもいい試験だったわけだが、試験中に一つの事件が起こったことだけは触れておきたい。冷静に考えれば、事件とは言えないような些細な珍事である。しかし紀昌にとって、またそこに居合わせた者にとっては大きな事件と言ってもよいほど衝撃的なものだった。

 それは試験二日目、最後の科目である理科の試験中でのことだった。早々に試験を放り出した紀昌は、残りの時間を修業に費やしていた。紀昌の試験中らしからぬ行動に、試験官である教師は注視していたが、別に声をかけるようなことはしない。試験開始から一〇分も過ぎると、三分の一程度の受験生が机に伏せてしまうからだ。

 すぐに試験を放棄してしまうのは、何も珍しいことではなかった。だが、自分の左手ばかり見ている受験生は、長年その学校に勤めている教師からしてもはじめての経験だった。

「変なやつがおるなぁ」というのが、その試験官の率直な感想である。

 理科の試験も残り五分になった頃、教室内に大きな叫び声が響き渡った。

「おぉおおおおおお〜〜!!!」

 それは雄叫びに近かった。もちろん声の主は紀昌である。試験中ではあったが、教室は一瞬騒然となった。多くの受験生は何が起こったのかわからなかった。それまで寝たふりをしていた受験生の中には、びっくりして飛び上がったために机の上の答案用紙や筆記用具を床にぶち撒けたやつまでいた。

 試験官はすかさず紀昌のもとに駆け寄る。

「どうしたんや? 何があったんや?」

 しかし紀昌はそれには答えず、ただ自分の左指を見つけているだけである。試験官は苛立ちを隠さず、紀昌を怒鳴りつけた。

「何をしとるんや。静かにせんか!」

 もうすでに紀昌は静かにしていたため、試験官は寝言でもほざいているのかと彼は思った。それでも、紀昌には反抗する気がさらさらなかった。なぜなら紀昌には詠嘆すべき重要なことが起こっていたからである。

 左手の中指に書かれた黒点が、明らかに大きく見えたのだ。たった一ミリ程度の黒点は、紀昌の目には一センチくらいの大きさに感じられたのである。これが叫ばずにいられるはずがない。たまたま場所が試験会場だったというだけのことだ。そもそも紀昌にとって試験など瑣末な存在である。その場の状況を顧みる気遣いなど到底ない。

 反省の弁もなければ、その態度も示さない紀昌に、試験官はブチ切れた。

「試験中に大きな声を出すんじゃない! お前は小学生か!」

 その段になって、ようやく紀昌の目は自分の指から試験官に向けられた。その時、教室には二度目の叫び声が響いた。

「ひぃええええええ〜〜!!!」

 正面から紀昌の目に見つめられた試験官の背中が凍りついた。試験官は無様にも尻餅をついてしまう。完全にノックダウンの形となってしまったのだ。ただテンカウントを取られる前に、チャイムというゴングに試験官は救われる。場内はしばらく不穏な空気に包まれていたが、試験が終わった安堵と相まって、まるで旋風のような奇妙な風が吹き荒れていた。

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