迷人伝 その4

 昼休み、紀昌は担任から呼び出しを食らっていた。今朝のことで何かしらのお説教があることは容易に想像がつく。だが、紀昌には自分が悪いことをしたという自覚が一切ない。どちらかと言えば、自分は被害者である。こっちのほうが文句の一つでも言ってやりたい思いだった。

 相手は教師である。学校という狭い世界では、教師は神よりも偉い、ということになっている。教師が「ダメだ」と言えば、それがどんなに世界平和のためであっても、いけないことだった。瞬き帽子が世界平和に貢献しているわけではないけれど、やはり空想上の話なので、自由にこじつけてもいいのである。

 紀昌は職員室に向かう間、「どうすれば、担任の了解を得られるやろか」と考えていた。いや午前の授業中もぼんやりと考えていた。しかし、その答えは結局見つからなかった。紀昌にできることは、開き直ることくらいしかなさそうだった。

 職員室で担任の席まで来た紀昌は、無造作に置かれていた椅子に座らされる。てっきり生徒指導室に連れて行かれると思っていたので、ちょっと拍子抜けである。計算高い担任は、職員室で生徒を指導している姿を先輩や同僚の教師に見せつけたいと思っていたようだ。紀昌の朝の奇行は、職員室内でもそれなりの話題になっていたからである。

 変な赤白帽をかぶって登校してきた生徒がいる。朝の職員会議では議題にも昇らなかったが、教師の口から口へと伝聞で広がっていたのだ。「これは自分の指導力をアピールするチャンスだ」と担任は思ってしまった。しかし、それは逆効果だったと、すぐに後悔することになる。

 担任は最初にかける言葉を探していた。順序立てて話をする癖が担任にはなかった。それは体育という授業を受け持っていたせいかもしれないし、根っからの性格からだったのかもしれない。担任は出たとこ勝負で、これまでの人生を歩んできたのだ。そんな担任は、予め何から話すべきかを考えていなかった。通常ならば気軽に話しかけて、適当に指導すれば済む話だった。しかし、担任には少なからず気負いがあった。なぜなら、他の教師が自分と紀昌に注目していることがひしひしと感じられたからだ。

 そのため担任に一瞬の隙が生じた。その隙を突いたかどうかはわからないが、紀昌のほうから口火を切ることになってしまった。

「僕の瞬き帽子を返してください」

 紀昌は開き直っていたが、その口調は至って普通だった。ところが、“瞬き帽子”という奇妙な言葉に、虚を突かれた担任は閉口する。

「ま、まばたきぼうし?」

「そうです。僕の帽子を返してください。僕にとって大事なものなんです」

「返すのは返すけど……」

 ようやく没収した帽子のことを言っていると気づいた担任であったが、一瞬頭が真っ白になってしまったため、何をどう指導すべきかがわからなくなってしまった。

「じゃ、早く返してください!」

「そりゃ、返すけど……」

「早く、さぁ早く!」

 紀昌は襲いかかりそうなほど前のめりになって、担任に右手を突き出す。狂気的な紀昌の顔に蹴落とされるように、担任は思わず帽子を差し出してしまった。

 職員室では、小さい失笑があちこちで起こった。いいところを見せたいと思っていた担任は、逆に赤っ恥をかかされた形になった。辱めを受けた担任は、このまま紀昌を帰すわけにはいかない。最後にビシっと言わなければいけない。

「そんなもの学校にかぶってくるな。授業中も、もちろんかぶったらダメだ。わかったな!」

 これで評価が上がることはないだろうが、少なくとも担任としての面目が立つ、いや立ってほしいと担任は願った。何も大きな事件を起こしたわけではない。たかが学校に赤白帽をかぶってきただけの話だ。目くじら立てて怒るほどではないのだ。もうかぶってこなければそれでこの件はおしまいである。

 しかし、すでに職員室の出入り口まで歩いていた紀昌から発せられた言葉は、担任だけでなく、すべての教師を凍りつかせた。

「嫌です。学校に来る時も授業中もずっとかぶっています。卒業するまで!」

 その言葉には、他人がとやかく言えないほどの気迫と梃子でも動かないほどの覚悟が込められていた。その場にいた教師たちは、唖然とするしかなかった。なぜ赤白帽に固執するのか、なぜ卒業までかぶる必要があるのか、何一つ理解することができなかったのだ。

 もちろん卒業というのは、中学校を卒業することを意味していない。紀昌が修業を卒業する時のことを言うのだが、教師たちには知る由もない。卒業するまで変ちきな帽子をかぶってくると宣言する紀昌に、担任を含め、教師たちは前例なき異常気象のごとく戸惑っていた。その間に、紀昌は職員室を後にし、さっそく瞬き帽子をかぶって修業を再開させたのだった。

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